道祖神の通りを隔てた向かい側の家から、手前(吉田方面)に3軒目は、Nという方の昔ながらの家でした。古写真に見えるような用水路はなく、舗装道路と家の間には、背が高くなった垣根と樹木があり、家は写真のように通り際ではなく、5、6mほど奥に入っています。通りに面して、屋根のある玄関がある。
その横に車の出入り口があり、私がそこから庭の方をのぞくと、ちょうど車から年輩の男性が出てこようとしているところでした。用事から帰って来て、車から下りようとしているのです。おそらくこの方がこの家のご主人だろうと判断し、車から下りてドアを閉めたところで声を掛け、写真を見てもらって用件を説明しました。
「この写真は、このあたりからかつての河口村を写したものですが、もしかしたらこの写真の左側の家に男の人が写っている家は、こちらの家ではないかと思うんですが」
とお聞きすると、
そのおじいちゃんは、眼鏡をとってその写真を熟視し、
「これは私の家です」
と言われました。
「この家は昔からのもので、この写真の家は今と同じものです」
写真と実物をよく見てみると、玄関のようすは、現在は屋根が張り出していますが、それ以外のところは確かに写真に写っている昔のままです。1階の通りに面した雨戸らしきところは現在はガラス戸になっています。
しかし、通りからは垣根や樹木を隔てて5、6mほど奥に入っています。
その点をお伺いすると、
「子どもの時に改築している」
とのこと。
「60年ほど前です」
「というと戦後ですか」
「ええ、戦後です。私が13、4の頃」
かつては、この通りには両側に用水路がありましたが、道路を拡張する時に、用水路を埋め、家自体は道から少し奥に引っ込んだのだという。それが改築と同じ時期であったのかどうかは聞きそびれましたが、道路の拡張のために奥に移動したのが現在の建物で、写真に写っている建物が今でも残っていることを確認することができました(一部、改築されてはいるものの)。
おそらく写真に写っている人家で、現在でもほぼそのままの形で残っているのはこの家だけでしょう。
おじいちゃんの名前は、N・Tさん。
先ほど立ち寄ったN・Kさんと同じ苗字でした。
「このあたりはNという苗字の家が多い」
と、Nさんは言われました。
通りを隔てた向かいの家もNさんで、N・Tさんの父親であるN・Kさん(先ほどのN・Kさんとはもちろん違います)の妹のHさんが嫁に行った分家である、とのこと。
「このあたりの家は、写真のように、昔から板葺きで石が乗っている屋根がほとんどだった」
とも。
しばらく庭先で立ち話をしてから、Nさんは、
「家の中に入って見ますか」
と言われたので、遠慮なく入らせてもらうことに。
庭先の縁側のガラス戸を開けて中に入りました。縁側は日が当たるところのためか、さすがに劣化していましたが、縁側から奥の部屋は立派ながっしりしたものでした。30cm前後もあるような太い梁が天井に走っています。
「天井裏は、おかいこをしたところです」
とNさん。
「写真の頃から、おかいこをしていたんですか」
とお聞きすると、
「その頃はもうおかいこをしていた」
とのこと。
今は屋根裏の物置きのようになっているらしい。
養蚕農家は、養蚕の時期になると、1階の部屋も2階の空間も、一家が寝るスペースを除いてほとんどのスペースに茣蓙を敷いて、そこで養蚕をしたようです。ある本によると、蚕が桑を食べる音がまるで雨が降っているように聞こえたものだという。
養蚕が盛んであった時代には、このN家も同様であり、その他の家々も同様であったことでしょう。
つまり、明治時代においては、この河口村は養蚕が盛んに行われていた地域の一つであったということになります。
それからふたたび庭に出て、Nさんに家の写真を撮らせてもらう許可を得て、何枚かのN家を写した写真を撮りました。
写真に写っている人物については、おそらくNさんのご先祖であり、お寺の過去帳やお墓の没年などを調べれば、名前が特定できるかも知れない、とNさんに話しました。
ともかく、臼井秀三郎が写した河口村の人家のうち、現存するものがあり、それが現在のN・Tさんの家である、ということまで知ることができるとは、調べる前までは予想もしていないことでした。
これが取材旅行の醍醐味の一つであると言えるでしょう。それはまた出会いのつながりの中で生まれたものでもありました。
ガソリンスタンドに立ち寄って、N・Kさんのお宅を教えてもらわなかったら、写真中の道祖神のことに気が付かず、気が付かなかったら、N・T宅との出会いも、またN・Tさんとの出会いも生まれなかったはずです。
庭先で、N・Tさんにお礼を述べて、11:10にふたたび歩き始めました。
そうそう、N・Tさんからは、河口村の中心はもう少し上(御坂峠寄り)の郵便局があるあたりで、そこには今ではクリーニング屋をやっているけれども「大坪屋(おおつぼや)」という旅館があったことも、教えてもらいました。
しかし、その「大坪屋」が、ギルマール一行が明治15年7月13日の夜、無数の蚤や蚊に悩まされた旅宿であったかどうかはわからない。
続く
○参考文献
・『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』小山騰・写真師臼井秀三郎(平凡社)
その横に車の出入り口があり、私がそこから庭の方をのぞくと、ちょうど車から年輩の男性が出てこようとしているところでした。用事から帰って来て、車から下りようとしているのです。おそらくこの方がこの家のご主人だろうと判断し、車から下りてドアを閉めたところで声を掛け、写真を見てもらって用件を説明しました。
「この写真は、このあたりからかつての河口村を写したものですが、もしかしたらこの写真の左側の家に男の人が写っている家は、こちらの家ではないかと思うんですが」
とお聞きすると、
そのおじいちゃんは、眼鏡をとってその写真を熟視し、
「これは私の家です」
と言われました。
「この家は昔からのもので、この写真の家は今と同じものです」
写真と実物をよく見てみると、玄関のようすは、現在は屋根が張り出していますが、それ以外のところは確かに写真に写っている昔のままです。1階の通りに面した雨戸らしきところは現在はガラス戸になっています。
しかし、通りからは垣根や樹木を隔てて5、6mほど奥に入っています。
その点をお伺いすると、
「子どもの時に改築している」
とのこと。
「60年ほど前です」
「というと戦後ですか」
「ええ、戦後です。私が13、4の頃」
かつては、この通りには両側に用水路がありましたが、道路を拡張する時に、用水路を埋め、家自体は道から少し奥に引っ込んだのだという。それが改築と同じ時期であったのかどうかは聞きそびれましたが、道路の拡張のために奥に移動したのが現在の建物で、写真に写っている建物が今でも残っていることを確認することができました(一部、改築されてはいるものの)。
おそらく写真に写っている人家で、現在でもほぼそのままの形で残っているのはこの家だけでしょう。
おじいちゃんの名前は、N・Tさん。
先ほど立ち寄ったN・Kさんと同じ苗字でした。
「このあたりはNという苗字の家が多い」
と、Nさんは言われました。
通りを隔てた向かいの家もNさんで、N・Tさんの父親であるN・Kさん(先ほどのN・Kさんとはもちろん違います)の妹のHさんが嫁に行った分家である、とのこと。
「このあたりの家は、写真のように、昔から板葺きで石が乗っている屋根がほとんどだった」
とも。
しばらく庭先で立ち話をしてから、Nさんは、
「家の中に入って見ますか」
と言われたので、遠慮なく入らせてもらうことに。
庭先の縁側のガラス戸を開けて中に入りました。縁側は日が当たるところのためか、さすがに劣化していましたが、縁側から奥の部屋は立派ながっしりしたものでした。30cm前後もあるような太い梁が天井に走っています。
「天井裏は、おかいこをしたところです」
とNさん。
「写真の頃から、おかいこをしていたんですか」
とお聞きすると、
「その頃はもうおかいこをしていた」
とのこと。
今は屋根裏の物置きのようになっているらしい。
養蚕農家は、養蚕の時期になると、1階の部屋も2階の空間も、一家が寝るスペースを除いてほとんどのスペースに茣蓙を敷いて、そこで養蚕をしたようです。ある本によると、蚕が桑を食べる音がまるで雨が降っているように聞こえたものだという。
養蚕が盛んであった時代には、このN家も同様であり、その他の家々も同様であったことでしょう。
つまり、明治時代においては、この河口村は養蚕が盛んに行われていた地域の一つであったということになります。
それからふたたび庭に出て、Nさんに家の写真を撮らせてもらう許可を得て、何枚かのN家を写した写真を撮りました。
写真に写っている人物については、おそらくNさんのご先祖であり、お寺の過去帳やお墓の没年などを調べれば、名前が特定できるかも知れない、とNさんに話しました。
ともかく、臼井秀三郎が写した河口村の人家のうち、現存するものがあり、それが現在のN・Tさんの家である、ということまで知ることができるとは、調べる前までは予想もしていないことでした。
これが取材旅行の醍醐味の一つであると言えるでしょう。それはまた出会いのつながりの中で生まれたものでもありました。
ガソリンスタンドに立ち寄って、N・Kさんのお宅を教えてもらわなかったら、写真中の道祖神のことに気が付かず、気が付かなかったら、N・T宅との出会いも、またN・Tさんとの出会いも生まれなかったはずです。
庭先で、N・Tさんにお礼を述べて、11:10にふたたび歩き始めました。
そうそう、N・Tさんからは、河口村の中心はもう少し上(御坂峠寄り)の郵便局があるあたりで、そこには今ではクリーニング屋をやっているけれども「大坪屋(おおつぼや)」という旅館があったことも、教えてもらいました。
しかし、その「大坪屋」が、ギルマール一行が明治15年7月13日の夜、無数の蚤や蚊に悩まされた旅宿であったかどうかはわからない。
続く
○参考文献
・『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』小山騰・写真師臼井秀三郎(平凡社)
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