鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

歌川広重の歩いた甲斐道 その8

2009-11-25 06:41:32 | Weblog

 『旅中 心おほへ』のスケッチは、スケッチ帳(写生帳)を手にした広重が実景を前にして描いたもので、彼が道中で見た順番に描かれています。

 まず描かれているのは「太鼓岩」。現在は所在不明という。吉沢ルート(「外道」「下道」)の入口付近にあったものらしい。崖の中ほどにまるで大太鼓のような形の岩があったようです。まるで山の上から転がってきて中途で岩に引っかかって止まったような「太鼓岩」。現在は見られなくなってしまったようだ。周囲の山々のようすなどは何も描かれておらず、太鼓岩とそれがある崖のあたりだけをクローズアップさせた写生画です。

 次に「外道ノ原」。ひろびろとした山の斜面にある原っぱの中を「御嶽道」が蛇行しながら山峡へと続いています。その行く手の右手の山の頂きには「刀抜岩」が描かれ、そのずって手前、外道ノ原が森林と接するあたりには「枕石」が描かれています。山峡に入っていく「御嶽道」の左手に家の屋根が描かれています。

 その次は「外道ノ原 其ニ」。

 外道ノ原を通ってきた道を振り返って見えた眺めだという。かなり上の方から俯瞰(ふかん)しています。広々とした外道ノ原の中に延びる「御嶽道」を、馬に荷物を載せた馬子と旅人らしき人たち、合わせて3人が描かれています。甲府城下の方へ下っています。こんもりとした円錐型の小山の向こうには御坂山地の山並みが描かれ、その右側に雪をかぶった富士山が顔をのぞかせています。その下には甲府盆地の広がりが描かれています。

 次は「鞍掛石」。「御嶽道の名物」であったという。「太鼓岩」と違って今でもあり、P8の写真に写っています。鞍のように中ほどがへこんだ岩であり、まるで鞍を崖の中ほどに掛けたようだから「鞍掛石」といったのです。金櫻神社への参道から羅漢寺に向かう下り道が分かれる、その分岐点からの眺めだという。鞍掛岩を眺めるように通っている道には、鞍掛岩を見上げてる旅人(参詣者)3人の姿が描かれています。

 その次は「象ヶ鼻」。現在のパノラマ台のすぐ下にある大きな奇岩のことをさして、そのように言ったらしい。左側の頁に描かれているのがそれ。その右手は断崖絶壁になっているようだ(写生では)。その向こう側には岩が全面に露出しています。

 左上に描かれているのは金櫻神社の社殿で、広重が金櫻神社まで赴いていることがわかります。

 その次が「御嶽道」における最後のスケッチ。「御嶽の大門」があり、御嶽村の家並みの向こうに大鳥居があり、この大鳥居を潜って長い階段を上って行くと金櫻神社の社殿に至るという。大門と大鳥居の間、さらにその向こうにも家が密集しています。写真と較べてみてもかなり写実的なスケッチです。右上には、「象ヶ鼻」のスケッチと同じく、金櫻神社の社殿がラフなタッチで描かれています。

 この広重が描いた金櫻神社の社殿は、昭和30年(1955年)に火災で焼失してしまいますが、広重が見た金櫻神社は、『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』の中に載っています。P23上の写真がそれで、明治15年(1882年)7月16日に撮影されたもの。撮影者は臼井秀三郎。柱には、左甚五郎作と伝えられる「昇り竜」が、すごい迫力で巻きついています。ほかにも竜の彫り物が丹念に施されているのがわかります。縁側にはなぜか子どもたちが写っています。みなカメラの方を見詰めています。その数4名。屋根は桧皮葺きでしょうか。

 その下の写真は、石段を登りつめたところから、下に広がる風景を見はるかしたもので、御嶽村の家並みと、その向こうの山越しに富士山が見えています。

 明治15年の7月、臼井秀三郎を含むヘンリー・ギルマール一行が金櫻神社に至った道は、広重が歩いた吉沢ルート(「外道」)ではなく、明治になってから開かれた「御嶽新道」でした。


 続く


○参考文献
・『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭 調査研究報告書』(山梨県立博物館)
・『江戸東京年表』(小学館)
・『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』小山騰・写真師臼井秀三郎(平凡社)



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