鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

歌川広重の歩いた甲斐道 その4

2009-11-21 05:28:25 | Weblog
笹子峠を越えてから広重が道連れになった「江戸講中」の一団を、勝沼宿から「横道」に入ったことから、私は、その「江戸講中」の一団を、富士浅間神社の参拝および富士遥拝を目的とする江戸庶民の集団ではないかと推測しましたが、彼らは大月宿から富士道を通って上吉田に向かうという「富士講」の一般的なルートをとらずに、勝沼宿から下黒駒へと向かう「横道」を通り、下黒駒から御坂道(旧鎌倉街道)に入り、御坂峠を越えて富士山方面に向かった(あくまでも私の推測)ことを考えると、一つの可能性として、彼らは河口村の御師(おし)に率いられた江戸のどこかの町の富士山を信仰する集団(道者の組織=講のメンバー)ではないか、ということが考えられます。当時、富士山の登山は女性は禁じられていますが(途中までは登ることができた)、4月(旧暦)初旬という時期を考えると、彼らは富士登山(登頂)を目指したわけではなさそう。とすると、この「江戸講中」のメンバーには女性も含まれていたかも知れないし、もしかしたら子どもも含まれていたかもしれない。伊藤堅吉さんの『富士山御師』によれば、河口村は古くから富士山遥拝の霊地であり、そこには浅間神社北口本宮があり、御師の経営する宿坊がありました。河口村からは河口湖の湖面越しに富士山の全貌を遥拝することができましたし、河口湖は禊(みそぎ)をする場所でもありました。この湖畔から上吉田に向かい、吉田の浅間神社を参拝して途中まで登る(女性が入ることができるところまで)というコースを、この広重が出会った「江戸講中」の一団はたどっていったのかも知れません。彼らを率いているのは河口村の御師(推測)。河口村のその御師が経営する宿坊に泊まり、その御師の案内で富士山に向かうのです。この河口村の「檀那場」は、甲斐・信濃ばかりか、越後・上野(こうづけ)・下総・武蔵・駿河・伊豆・相模方面にも広がっており、江戸市中にも存在した可能性がある。しかし、幕末には富士講の驚異的な普及とともに、上吉田の御師たちおよび上吉田(宿坊)にその繁栄を奪われ、道者数は激減。河口村の御師集団は衰退の一途をたどっていました。「富士講」により上吉田に繁栄を奪われた、河口村の御師たちがかろうじて細々と維持してきた道者の一団、それも江戸市中ないし近辺の一団が、広重が甲府盆地に入ったところで道連れになった「江戸講中」であったのかも知れません。 . . . 本文を読む