鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

歌川広重の歩いた甲斐道 その8

2009-11-25 06:41:32 | Weblog
天保12年(1841年)の4月下旬か5月上旬頃、それまでに甲府道祖神祭礼のための幕絵の下書きをある程度完成させた広重は、甲府城下を出立して「御嶽道」を歩いて金櫻神社を参詣し、その後に「身延道」(河内路)をたどっておそらく身延山の久遠寺まで赴いたものと思われます。新津健さんは、前記論文で「御嶽道では甲斐の山を描き、身延道では川と舟の情景を実見したかったのではないのか」としていますが、金櫻神社や身延山久遠寺自体に興味・関心があったというよりも、そこにいたるまでの道筋における絵の題材となるような景観(「山水の奇勝」)を探ることが一番の目的であったようです。その写生旅行から江戸に戻った広重に、待ち受けていた出来事とは何かというと、5月9日には徳丸原で高島秋帆が銃隊訓練を行っており、5月22日からは老中水野忠邦を中心とする天保の改革が始まっています。北町奉行所には市中取締掛が設置されます。物価高騰の原因の一つであるとして奢侈が禁じられ、風俗の取り締まりが強化されていくことになります。10月7日には日本橋堺町の水茶屋から出火。中村座・市村座を含む一帯が焼け野原になりました。また10月11日には「蛮社の獄」で逮捕され、三河国田原城下に蟄居中の渡辺崋山が自殺。その10月か11月初旬頃、広重はふたたび甲州街道を歩いて甲府城下へと向かったのです。もちろん春に一段落つけた幕絵を完成させるためでした。翌年の小正月の道祖神祭礼のために、緑町一丁目の「幕御世話人衆中」より依頼されている幕絵11枚をすべて完成させなければならなかったのです。 . . . 本文を読む