鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.11月取材旅行「御坂峠~河口~剣丸尾」 その6

2009-11-10 06:57:13 | Weblog
ヘンリー・ギルマール一行が横浜を出発したのは明治15年(1882年)の7月8日でした。その構成人員は、ギルマールらイギリス人が4人(ギルマール、ケトルウェル、ケトルウェル夫人、パウエル)、ケトルウェルの従者であるルイ、通訳兼ガイドであるハコダテ、写真師である臼井秀三郎とその兄英次郎、それに臼井らの人夫、さらに西洋料理人であるスピリディオーネ。合わせて10数人でした。東海道を進み、小田原から人力車を降りて駕籠に乗り換え宮ノ下に到着しそこで宿泊。翌9日は芦ノ湯などを経由して箱根の峠道(東海道)に出て芦ノ湖に到着。おそらくここの箱根宿に宿泊し、おそらく11日に仙石を経由して乙女峠を越え、御殿場から須走まで進んでそこで宿泊。翌12日は籠坂峠を越えて山中湖を右手に見て吉田に到着し、おそらくここで宿泊。そして翌13日、吉田を出発して浅間神社などを訪れ、河口湖までの道筋および河口湖において富士山の姿を鑑賞し、また撮影するために時間を掛け、その日は河口村に宿泊。翌14日の午前中は、やはり秀峰富士山を鑑賞するために近辺を動き回り、昼食の後、河口村を出発。次の宿泊予定先である藤野木をめざして御坂峠を越えていきました。おそらく乙女峠から吉田までは富士山は、天気の関係でその全貌を見せることはなかったのでしょう。しかし、吉田に宿泊した翌日、すなわち13日には天気は回復し、ギルマール一行は、下半分は雲があるものの、上半分がくっきりと姿を現した富士山を見ることができました。14日には写真を撮るために河口湖を舟で移動。「富士山のいい写真をうまく撮った」のでした。ちなみにケトルウェルは彼らがそれに乗って旅行したマーケーザ号の船主、パウエルはその航海士、通訳兼ガイドのハコダテというのは日本人でした。ギルマールは、「その近辺には、富士山の頂上に出かける敬虔な巡礼者が立ち寄って拝む大変立派な神道の神社がいくつかある。またすばらしい杉の木も何本もある」としていますが、「その近辺」とは須走を含む彼らが進んだ鎌倉街道の道沿いのことで、いくつかあった「立派な神道の神社」とは、須走の浅間神社や吉田の浅間神社、そして河口の浅間神社であったでしょう。彼らがその神社の境内に足を運んでいるのは確実です。彼らはそこに聳え立っている杉の巨木に驚嘆したはずです。ギルマールは、「杉は最も上等な常緑樹であると思う」と記しています。 . . . 本文を読む

2009.11月取材旅行「御坂峠~河口~剣丸尾」 その5

2009-11-09 06:43:06 | Weblog
その土地のかつてのようす(生業〔なりわい〕や景観を含む)を知るためには、現地に赴くのが一番ですが、現地に行って見てみればそれがすべてわかるというものではなく、現地のお年寄りに話をうかがったり、古写真(幕末・明治以降)や絵画資料(大正・明治以前)と照らし合わせたりするとともに、やはり文献資料にあたることが大事です。それらをフルに活用して、かつてのようすを頭の中で再現していくわけですが、聞く人も活用する資料も一人では限られていて、再現した「像」がどれまでかつてのようすに近付いているか覚束ない部分はありますが、しかし自分で出来る範囲でやっていくしかありません。しかし、そのような作業を続けていくと、かつてのようすが新鮮に立ち現れてきて、自分の思い込みによる浅薄な知識が、次々と打ち壊されていくのを実感して、わくわくとしてくるのも事実です。今回の取材旅行でもそういったわくわくした思いを感じました。まわりの山(富士山を含めて)の形やその山稜の重なり具合はほとんどまったく変わらないものの、その他の、村や町、通りなどの景観は、あたりまえのこととはいえ、ヘンリー・ギルマール一行がここを通過した明治15年(1882年)7月のそれとは大きく変貌しているのです。それ以前の景観と、明治15年の景観とは、それほど大きくは変わってはいなかったと思われます。樋口一葉の両親がここを江戸へ向けて歩いていった安政4年(1857年)の沿道の景観は、ギルマール一行が見たものと、それほど大きくは変わらなかったと思われます(それでも微細に見ていけば、家の造り、神社のようすなどは、生業の変化や廃仏毀釈の関係でそれなりに変化しているはず)。明治以降、とくに昭和になって大きく変貌しているということをまず頭にしっかり入れておかないと、現在の景観を見て過去のようすを推測するのは危険をともないます。『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』のP16上には、「河口湖から見た富士山」という写真が載っていますが、この撮影地点については地元の人に聞いてもわからなかったものでした。この写真は河口湖からのものではない。ではどこからか、ということは後に記しますが、地元のお年寄りに聞いてもわからなくなっているほど、景観は大きく変貌してしまっているのです。127年前の、富士山北麓あたりの鎌倉往還の沿道のようすは、この写真のようなものであったのです。 . . . 本文を読む

2009.11月取材旅行「御坂峠~河口~剣丸尾」 その4

2009-11-08 07:59:35 | Weblog
この御坂峠を駄賃稼ぎの馬子と、馬子が曳く馬が往来していました。その数は年間どれほどであったかはわからないが、相当の数であったはず。馬子が馬の背で運んだものは、米や麦や酒や薪炭など、また塩や魚(まぐろなどの鮮魚も含む)や薬種、日用品などであったでしょう。馬子といえば馬子歌がつきものですが、御坂峠を越える馬子たちの馬子歌というものもあったようです。馬子たちは峠道を馬を曳いて歩きながら、朗々とした声色で馬子歌をうたいました。その歌の文句をちょっと調べてみましたが、次のようなものであったらしい。「御坂越えればあの黒駒の 足も軽いが気も軽い」(『河口湖周辺の伝説と民俗』伊藤堅吉編著〔緑星社〕より)。「御坂夜道は何やら凄い 早く音を出せ時鳥(ほととぎす)」「好いた馬方やめろじゃないか 御坂夜道はよさせたい」「御坂峠のあの風車 誰を待つやらクルクルと」「送りましょうか送られましょか せめて峠の茶屋までも」「松になりたや御坂の松に 上り下りの手掛松 アートコ キーチャンドーエ」(『富士御師』伊藤堅吉〔図譜出版〕より)。これらの馬子歌から分かることは、馬子たちは馬を曳いて御坂峠の夜道を往来したということ。夜の峠道を松明などを燃やしながら歩いたのでしょう。夜道を急いだということは、馬の背中に載っている荷物の中身は、沼津の浜に水揚げされた鮮魚などであったかも知れない。もちろん河口村から峠道に入り藤野木・黒駒経由で甲府へと向かったのです。御坂峠の夜道は、闇が深く、まるで深閑とし、また危険なものでもあったのです。獣も出れば、滑落の危険もありました。ほかにわかることは、峠の茶屋があったこと。そこには風車(かざぐるま)があり、峠を吹く風にクルクルと回っていたということでしょうか。この伊藤堅吉さんの『富士御師』という著書は、「富士山御師」のうち「河口御師」について書かれたもので、河口村についての、私がまったく知らなかったたいへん興味深い歴史を知ることができました。詳しいことは、また別の機会にゆずりたいと思いますが、御坂峠にあった休み茶屋(「一文字屋」という名前か?)は、河口御師が経営していたものであったという。河口村は、上吉田とともに、江戸時代以前においては「御師」の村でもあったのです。これは私にとって意外なことでしたが、実際歩いてみて振り返ってみると、まさに当然なことであると思われました。 . . . 本文を読む

2009.11月取材旅行「御坂峠~河口~剣丸尾」 その3

2009-11-06 06:45:02 | Weblog
古い峠道はあじわいがあり魅力があるということを、この御坂峠を越えたときも感じました。この取材旅行を始めてから歩いて越えた峠道は箱根峠とこの御坂峠。車で越えた峠は天城峠、碓氷峠などですが、それぞれ印象深いものでしたが、歩いて旧道を探しながら越えてみると、その味わいはさらに増します。御坂峠を歩きながら、「なぜ峠道は魅力があるのだろう」などといったことを考えました。私にとって峠道が魅力的なのは、一つは峠道の道自体の魅力。長年の間、草鞋(わらじ・人も馬も)で踏み続けられ、また近辺の村の人々によって整備され続けてきて出来た形状の名残りというものがある。幅は人馬がすれ違える幅ということで1mから2m前後。道の断面はつぶれたU字形になっている場合が多い。路面は石畳になっていたりして、その上に、今の時期であれば落ち葉が降り積もり、またその下には枯れ葉が腐って土になった腐植土が薄く積もっていたりします。この枯れ葉の積もった平たいU字状の道は、私に「まろやかさ」という言葉を思いつかせました。歴史の年輪を感じさせる「まろやかさ」というものが峠道にはある、ということです。二つ目は、そこを歩いた人々の思いというものを感じさせるということ。鉄道や自動車道が普及するまでは、何千年もの長い間、人々はこの峠道をあえぎあえぎ登り、そして下って行ったのです。歴史的に有名な人もいますが、それはごくごく一部であって、大多数は「歴史」的には無名の人々。そういった人々が、生業(なりわい)のためか、旅のためか、信仰のためか、あるいはよんどころのない事情のためか、さまざまな思いを抱いて、峠道を歩いていきました。近所の道とは違って、峠を越えて見知らぬ他郷に赴くということはそれなりの覚悟が必要だったはずです。自分の人生行路を振り返りながら、峠道を越えていった人々の思いに触れつつ歩いていくことができる「楽しみ」がある。三つ目は、九十九折(つづらおり)の厳しい山道を登りきって峠の頂きに出た時の感動というものがある。峠の頂きやその途中で、自分が歩いてきた道や自分が見知っている景色を振り返るとともに、これから歩くであろう下り道や見知らぬ土地に思いをはせるという瞬間がある。後ろ髪を引かれつつ、さまざまな思いを味わいつつ、汗を流し息を切らせながら、景観が広がったところにたどり着いた時の感動というものがあるのです。 . . . 本文を読む

2009.11月取材旅行「御坂峠~河口~剣丸尾」 その2

2009-11-05 06:57:12 | Weblog
江戸の真下専之丞を頼るべく、安政4年(1857年)の4月6日の朝、中萩原村を出立した樋口大吉と古屋あやめは、この日は下黒駒あたりから「御坂みち」に入り、駒木戸の番所を過ぎて、夕刻頃に藤野木宿に到着(宿泊したのは一説によれば「松本屋」)。翌4月7日早朝、藤野木宿を出立して、御坂峠を越え、河口・吉田を経由して、当日夕刻に郡内山中村に到着し、「鳴海屋」に宿を取りました。御坂峠を下る途中、また河口村に出てから、雪をかぶった秀麗な富士山を間近に見ていると思われます(天気がよければ)。藤野木から「三ツ峠入口」バス停付近までの峠道は、ルートはかつてのルートそのものか、それから大きくは外れないものと思われ、二人が息を切らせつつたどった山中の道。甲府付近の昇仙峡を見物し、また富士川下りを楽しむべく、横浜を出立したギルマール一行と随行カメラマンの臼井秀三郎らは、明治15年(1882年)7月13日に山中湖、吉田村を経由して河口村に到着。そこで宿を取り、翌14日の昼食後、その村の写真を撮ってから藤野木に向けて出発。御坂峠を越えていきました。藤野木宿ではどこに泊まったかはわからないが、河口村の宿と違って蚤や蚊がおらず快適に眠ることができました。翌15日の朝は快晴で、臼井は谷の写真を撮影。午前8時に甲府に向けて出発。沿道は広い範囲にわたって注意深く耕作されており、ジャガイモや麦、そして桑などが栽培されていました。桑畑はもちろん養蚕のためのものであるでしょう。ギルマール一行は晴れ晴れとした谷を通り抜け、小さなきれいな場所を見つけて、そこでグループ全体の写真(記念写真)を撮影。その後、1マイルか2マイル先に進むと、谷はようやく開け、谷を登り降りして上黒駒に一行はたどりついたのです。私は、そのギルマール一行の行程を、逆にたどっていることになります。吉田村や河口村については興味深い記述があるのですが、それについては、おいおい写真とともに見ていくことにしたい。 . . . 本文を読む

2009.11月取材旅行「御坂峠~河口~剣丸尾」 その1

2009-11-04 06:23:36 | Weblog
前回の取材旅行では、「御坂みち」の旧道と新道(バス通り)が交わるところ、すなわち「藤野木」バス停のところまでを歩きました。思いがけず、「山彦」という売店のKさんといろいろと話しこみ、かつての茅葺き屋根の棟に植えられていたであろう「イワヒバ」や「イチハツ」を見ることができました。こういう棟は一般に「芝棟」といわれ、東海道や甲州街道近辺にも見られ、またその間の脇往還の村々にも見られたものです。この「御坂みち」の民家の屋根にも見られたものであることを確認することができました。確認したのは、『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』に収録されている臼井秀三郎が撮った3枚、すなわち同書P18の上下およびP19上の写真の撮影地点も。撮影されたのは明治15年(1882年)7月15日の早朝から午前9時頃にかけて。写した順番は、P18上(藤野木宿)→P18下(駒木戸・現立沢)→P19上(上黒駒)となる。当時の「御坂みち」は、藤野木宿より下(上黒駒方面)では、現在の旧道よりさらに東側を走り、場所によっては金川沿いに、または金川より東側の山沿いに走っていたことがわかりました。P19上の写真のところに記されているように、「谷を登り降り」するかなりアップダウンのある道であったのです。しかし明治40年の大水害を始めとする水害により、金川の流路は変化し、また金川の流域も大きく変貌し、かつての「御坂みち」の一部は失われてしまいました。今回の取材旅行のポイントは、同じく『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』の臼井秀三郎が撮影した写真、P15~P17にかけての6枚の写真の撮影地点を確認することでした。P17下の写真を除いては、藤野木宿に泊まる前日の7月14日ないし13日に撮影されたもの。吉田村と河口村、それに河口湖越しに富士山が写されています。撮影された地点は、取材の結果、吉田村からP15上→P16上→P16下→P17上→P15下であることが判明しました。この日、ヘンリー・ギルマール一行と随行写真師の臼井秀三郎らは、「無数の蚤と蚊」に悩まされた河口村の宿を出て午前中は河口湖からの富士山を撮影。昼食を摂ってから、河口村の写真を撮影した後、藤野木に向けて出発。P15下の写真の奥に見える御坂峠の険しい山道を越えたのです。その途中で撮った写真がP17の写真。ということはこの写真も7月14日に撮影されたものかも知れない。 . . . 本文を読む

山梨県立博物館・企画展「甲斐道をゆく」について 最終回

2009-11-03 06:38:09 | Weblog
山本周五郎(本名清水三十六〔さとむ〕)は、明治36年(1903年)の6月22日、山梨県北都留郡初狩村で、父逸太郎、母とくの長男として生まれました。明治40年(1907年)夏、大雨による山津波で、初狩村は壊滅的被害を受け、祖父伊三郎、祖母さく、叔父粂太郎、叔母せきの4人を失いました。三十六(周五郎)の一家は、大月駅前に住んでいたため難を逃れ、この後、東京へ出てそこに住むことになりました(『曲軒・山本周五郎の世界』による)。この明治40年の大水害は、台風襲来に伴う豪雨によるもので、この豪雨は同年8月22日から26日にかけて降り続けました。この豪雨により山梨県下各地において大水害が発生。北都留郡の大原村では718ミリを記録し、県下でも最多の降雨量の地域となり、多大な被害をもたらしたという。『北都留郡誌』によれば、初狩村では、24日午後2時頃に富士沢滝の前が崩壊して家屋が17軒倒壊し、埋没死亡者が7人。同日午後3時頃、唐沢山が大崩壊し、同4時半頃、25日午前7時頃、相次いで発生した大崩壊により倒壊家屋28戸、埋没死亡者11人。下初狩寒場沢では25日午前6時半頃より同8時20分にわたり前後3回の大崩壊が発生し、倒壊家屋52戸、埋没死亡者26人。また立河原付近では河川氾濫のため民家37戸が流失しました。この埋没死亡者の中に、山本周五郎の祖父母と叔父叔母の4人が含まれているに違いない。東山梨郡春日居村字小松では笛吹川の堤防が十三間(約24m)にわたって決壊。金川および鵜飼川が氾濫して石和町に奔流し、同町の大部分は床上浸水し、道路の水深は4尺(約1mへ20cm)に及びました。笛吹川に架かっていた甲運橋は24日の正午、増水により流失。東山梨・東八代両郡では流失家屋は2068戸、死者は108人を数えました。まさに未曾有の大水害であったのです。山梨県立博物館の常設展では、この明治40年夏に山梨県を襲った大水害のことが詳しく紹介されていました。 . . . 本文を読む

山梨県立博物館・企画展「甲斐道をゆく」について その5

2009-11-02 06:14:19 | Weblog
企画展「甲斐道をゆく」の「近代の道と鉄道」は、横浜開港と甲州商人の活躍、「道路県令」といわれた藤村紫朗、明治13年(1880年)の明治天皇の巡幸、中央線の開通、馬車鉄道(富士馬車鉄道・都留馬車鉄道)などに関する展示でした。横浜開港と甲州商人で登場してくるのは、篠原忠右衛門や若尾逸平・幾造兄弟ら。横浜~甲府間は八王子経由(甲州街道経由)でおよそ130km。この間で情報のやりとりをいかに早く行うかが、生糸相場の変動の中で利益を得るか否かのポイントでした。藤村紫朗は、道路や学校などの整備を積極的に進めましたが、それは県民に大きな負担を強いるものでもあったことを知りました。明治13年(1880年)の天皇巡幸は、総勢約400人。上野原に6月17日に入り、甲府に3泊して23日には長野県へ入っています。足掛け7日間の甲州巡幸(といっても甲州街道沿い)。『明治天皇御巡幸記』(昭和14年刊)に詳しい記述がある。中央線の建設工事が開始さたのは明治29年(1896年)12月。ちなみにこの年11月に樋口一葉(奈津)は亡くなっています。甲府駅が開業したのは明治36年(1903年)の11月。6年余の歳月と当時における1千万円という巨費が掛かりました。最大の難関であったのは笹子峠。笹子トンネルの掘削工事は困難を極めました。全長は4656mで当時の国内のトンネルとしては最長でした。この鉄道の開通によって、およそ3日を要した甲府~東京間は、たったの6時間に短縮されました。もし一葉がもう数年長生きしていたならば、きっとこの中央線(鉄道)を利用して中萩原村を訪れていたことでしょう。甲府駅における開通式には20万人もの人々が集まったという。この鉄道の開通が、従来の諸街道の宿場町にどれほど大きな変化をもたらしたかは容易に推察することができます。黒野田宿しかり、藤野木宿しかり。常設展には、明治40年(1907年)の大水害の展示や説明が詳しくなされていました。この明治40年の大水害については、前に触れたことがありますが、今でも山梨県民の記憶に強く刻み込まれている未曾有の大水害でした。山本周五郎の祖父母や親戚のものたちが、山津波で一瞬にして命を失ってしまったのも、この明治40年の大水害でした。山本周五郎の本名は、清水三十六(さとむ)。明治36年に生まれたからです。大水害は、したがって彼が4歳の時の出来事でした。 . . . 本文を読む