鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.11月取材旅行「御坂峠~河口~剣丸尾」 その4

2009-11-08 07:59:35 | Weblog
この御坂峠を駄賃稼ぎの馬子と、馬子が曳く馬が往来していました。その数は年間どれほどであったかはわからないが、相当の数であったはず。馬子が馬の背で運んだものは、米や麦や酒や薪炭など、また塩や魚(まぐろなどの鮮魚も含む)や薬種、日用品などであったでしょう。馬子といえば馬子歌がつきものですが、御坂峠を越える馬子たちの馬子歌というものもあったようです。馬子たちは峠道を馬を曳いて歩きながら、朗々とした声色で馬子歌をうたいました。その歌の文句をちょっと調べてみましたが、次のようなものであったらしい。「御坂越えればあの黒駒の 足も軽いが気も軽い」(『河口湖周辺の伝説と民俗』伊藤堅吉編著〔緑星社〕より)。「御坂夜道は何やら凄い 早く音を出せ時鳥(ほととぎす)」「好いた馬方やめろじゃないか 御坂夜道はよさせたい」「御坂峠のあの風車 誰を待つやらクルクルと」「送りましょうか送られましょか せめて峠の茶屋までも」「松になりたや御坂の松に 上り下りの手掛松 アートコ キーチャンドーエ」(『富士御師』伊藤堅吉〔図譜出版〕より)。これらの馬子歌から分かることは、馬子たちは馬を曳いて御坂峠の夜道を往来したということ。夜の峠道を松明などを燃やしながら歩いたのでしょう。夜道を急いだということは、馬の背中に載っている荷物の中身は、沼津の浜に水揚げされた鮮魚などであったかも知れない。もちろん河口村から峠道に入り藤野木・黒駒経由で甲府へと向かったのです。御坂峠の夜道は、闇が深く、まるで深閑とし、また危険なものでもあったのです。獣も出れば、滑落の危険もありました。ほかにわかることは、峠の茶屋があったこと。そこには風車(かざぐるま)があり、峠を吹く風にクルクルと回っていたということでしょうか。この伊藤堅吉さんの『富士御師』という著書は、「富士山御師」のうち「河口御師」について書かれたもので、河口村についての、私がまったく知らなかったたいへん興味深い歴史を知ることができました。詳しいことは、また別の機会にゆずりたいと思いますが、御坂峠にあった休み茶屋(「一文字屋」という名前か?)は、河口御師が経営していたものであったという。河口村は、上吉田とともに、江戸時代以前においては「御師」の村でもあったのです。これは私にとって意外なことでしたが、実際歩いてみて振り返ってみると、まさに当然なことであると思われました。 . . . 本文を読む