鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.11月取材旅行「御坂峠~河口~剣丸尾」 その9

2009-11-13 07:23:17 | Weblog
『富士吉田市史研究』第2号の「近世吉田地方における絹織業」(神立孝一)によれば、郡内地方には「男は山稼(やまかせぎ)、女は絹稼」という言葉があって、「山稼」と「絹稼」が郡内地方の重要な生業であったという。郡内地方は水田に適する土地が少なく生産性が高い地域ではありませんでした。したがって山稼や絹稼は現金収入を得るために重要な生業であったのです。男は入会山からの燃料材等の刈出しを行ったり荷駄賃稼ぎを行ったりし、女は機織りなどを行いました。「女は蚕を養ひ絹を織り其余農事を業とす」という記録があるように、女性は蚕を飼って織物を行い、それを販売することでそれを生計の大きな足しにしていました。同じく『富士吉田市史研究』第4号「稲作・養蚕と年中行事─富士吉田市上暮地の調査から─」(長沢利明)によれば、この地域の養蚕は、春蚕と秋蚕の2回が一般的であったようだ。春に始まった蚕(春蚕)は初夏には終わり、秋になれば秋蚕が始まりました。上暮地では、集落東方の山中にある白糸の滝のところに「オシラガミサマ(御白神様)」があり、祭日である4月15日(旧暦)は、養蚕農家の参詣者で大いに賑わったという。「オシラガミサマ」は、「オコガミサマ(御蚕神様)」、「カイコガミサマ(蚕神様)」、「コカゲサマ(蚕影様)」とも呼ばれ、蚕(養蚕)の神様でした。「オシラガミサマ」には、招き猫がたくさん奉納されていたとのことですが、これは蚕の大敵であるネズミを捕らえる猫のシンボルでした。「天神」は「機神」でもあり、また「道了尊」も「機屋の神」であり、したがって「天神社」や「道了尊」も養蚕農家の信仰を集めたという。先の神立論文によれば、御師の村である上吉田村においては「養蚕と絹織物は無かった」という。近辺の松山村や新屋村などではかなり早い時期から養蚕と絹織が行われており、それらの村々では、養蚕や絹織は年貢納入のための換金作物としてのウェイトが高かった、という。この郡内地方では田んぼが少なく地味も痩せており、大部分の農家が年貢である米を他の地域から購入していました。「絹稼」は重要な現金収入源であったのです。そういう地域であったために、この地域の農民たちは「米相場や換金作物、生産物の相場から影響を受けることに」なり、相場の変動はただちに生活に影響しました。ということは彼らは相場の上下に敏感であったということでもあるでしょう。 . . . 本文を読む