「甲府道祖神祭」については、先に触れたように高橋修さんの論文が、『調査研究報告書』に収められています。
それによると、甲府城下では、毎年小正月における道祖神祭礼の時期に、巨大な幕絵を道の両側に飾るという、全国でもあまり類をみない独自の祭礼が行われていました。
甲府城下全体では、道祖神祭礼当日には数百枚以上の幕絵が飾られていたと推定されるといい、その光景を人々の賑わい・雑沓とともに想像してみると、高橋さんが言われるようにまさに「圧巻」といえるものでした。
この光景は、山梨県立博物館の常設展示(柳町三丁目の様子を再現したジオラマ)などで、かすかながら推し量ることができます。
高橋さんによれば、甲府道祖神祭礼に用いられた幕は、戦場で用いられる陣幕の作法にのっとって作成されています。それの証左となるものは「物見の穴」が施されていること。幕の内側から外をうかがうための「のぞき穴」です。幕の長さやその縫い方も陣幕のそれらを意識したもの。
この幕絵は、通り両側の建物の前に「幕串」(幕を飾るための棒)を立て、それに張ったもので、表通りの両側全体を幕絵で覆い尽くしました。
幕絵は町ごとに一定の大きさで作成されていました。幕絵一枚あたりの大きさは、表通りの総延長数から割り出して計算され、決定されたものでした。
緑町一丁目では、表通りの総延長数はおよそ128.7m。現存する広重の幕絵の横幅は約10.7m。そのことからも緑町一丁目に飾られた広重描く「東都名所」の幕絵は11枚であったことが推定されるのです。11枚とは、緑町一丁目の有力商人11名に見合っています。
瀬戸物商であり醤油商でもある岩崎屋彦左衛門は「洲崎汐干狩」の幕絵を管理していたから、「洲崎汐干狩」は岩崎屋彦右衛門のために描かれたものであり、岩崎屋の敷地前に飾られました。
そして毎年、同じ場所に繰り返しその幕絵が飾られたのです。
この「甲府道祖神祭」に幕絵が飾られるようになったのはいつ頃からかといえば、高橋さんの考証では、どうも天保13年(1842年)頃からであるようです。
その前年の天保12年(1841年)に、広重が甲府にやってきて幕絵を完成させた(11月までに)のは確実。
その広重の幕絵は、翌年、つまり天保13年の小正月における道祖神祭に間に合わせるものであったでしょう。
それは甲斐国を揺り動かした大事件であった「天保騒動」(郡内騒動)が勃発した年、天保7年(1836年)から6年後の小正月でした。
武家社会において神聖かつ重要な道具である陣幕は、基本的に敵から身を隠すという実用的な機能とともに、悪霊から身を防ぐという呪術的な機能も併せ持っていました。
陣幕を表通りの両側に、しかも町をくるむように飾ることによって、外界からの悪霊・病気の侵入を防ぐ効果を期待したのではないか、と高橋さんは推定しています。当時、天保の飢饉や騒動の影響のために沈滞していた甲府城下を活性化(リフレッシュ)させるために、甲府城下の有力商人がこぞって立ちあがり、企図したのが、道祖神祭において幕絵を飾るという、全国的に見ても類いまれな「演出」であったというわけです。。
では、甲府城下における「道祖神」信仰というものは、具体的にはどういうものであったのか。
今でも「丸石」道祖神を中心に、山梨県下で見られる「道祖神」およびその信仰の形態と同じなのか。それとも違うのか。
その点については、次回に検討してみたいと思います。
○参考文献
・『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭 調査研究報告書』(山梨県立博物館)
それによると、甲府城下では、毎年小正月における道祖神祭礼の時期に、巨大な幕絵を道の両側に飾るという、全国でもあまり類をみない独自の祭礼が行われていました。
甲府城下全体では、道祖神祭礼当日には数百枚以上の幕絵が飾られていたと推定されるといい、その光景を人々の賑わい・雑沓とともに想像してみると、高橋さんが言われるようにまさに「圧巻」といえるものでした。
この光景は、山梨県立博物館の常設展示(柳町三丁目の様子を再現したジオラマ)などで、かすかながら推し量ることができます。
高橋さんによれば、甲府道祖神祭礼に用いられた幕は、戦場で用いられる陣幕の作法にのっとって作成されています。それの証左となるものは「物見の穴」が施されていること。幕の内側から外をうかがうための「のぞき穴」です。幕の長さやその縫い方も陣幕のそれらを意識したもの。
この幕絵は、通り両側の建物の前に「幕串」(幕を飾るための棒)を立て、それに張ったもので、表通りの両側全体を幕絵で覆い尽くしました。
幕絵は町ごとに一定の大きさで作成されていました。幕絵一枚あたりの大きさは、表通りの総延長数から割り出して計算され、決定されたものでした。
緑町一丁目では、表通りの総延長数はおよそ128.7m。現存する広重の幕絵の横幅は約10.7m。そのことからも緑町一丁目に飾られた広重描く「東都名所」の幕絵は11枚であったことが推定されるのです。11枚とは、緑町一丁目の有力商人11名に見合っています。
瀬戸物商であり醤油商でもある岩崎屋彦左衛門は「洲崎汐干狩」の幕絵を管理していたから、「洲崎汐干狩」は岩崎屋彦右衛門のために描かれたものであり、岩崎屋の敷地前に飾られました。
そして毎年、同じ場所に繰り返しその幕絵が飾られたのです。
この「甲府道祖神祭」に幕絵が飾られるようになったのはいつ頃からかといえば、高橋さんの考証では、どうも天保13年(1842年)頃からであるようです。
その前年の天保12年(1841年)に、広重が甲府にやってきて幕絵を完成させた(11月までに)のは確実。
その広重の幕絵は、翌年、つまり天保13年の小正月における道祖神祭に間に合わせるものであったでしょう。
それは甲斐国を揺り動かした大事件であった「天保騒動」(郡内騒動)が勃発した年、天保7年(1836年)から6年後の小正月でした。
武家社会において神聖かつ重要な道具である陣幕は、基本的に敵から身を隠すという実用的な機能とともに、悪霊から身を防ぐという呪術的な機能も併せ持っていました。
陣幕を表通りの両側に、しかも町をくるむように飾ることによって、外界からの悪霊・病気の侵入を防ぐ効果を期待したのではないか、と高橋さんは推定しています。当時、天保の飢饉や騒動の影響のために沈滞していた甲府城下を活性化(リフレッシュ)させるために、甲府城下の有力商人がこぞって立ちあがり、企図したのが、道祖神祭において幕絵を飾るという、全国的に見ても類いまれな「演出」であったというわけです。。
では、甲府城下における「道祖神」信仰というものは、具体的にはどういうものであったのか。
今でも「丸石」道祖神を中心に、山梨県下で見られる「道祖神」およびその信仰の形態と同じなのか。それとも違うのか。
その点については、次回に検討してみたいと思います。
○参考文献
・『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭 調査研究報告書』(山梨県立博物館)
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