鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

歌川広重の歩いた甲斐道 その3

2009-11-20 06:35:52 | Weblog
百姓勝右衛門宅で奥から出て来た女性は、70半ばを越したかと思われるおばあちゃんでしたが、「毒蛇済度の旧地」の碑の由来を詳しく知っているばかりか、実は昨年、信州善光寺から江戸・江の島・鎌倉・大山へと寺社参詣および見物の旅に、たった一人で出た女性でもありました。広重は詳しくは記していませんが、そのおばあちゃんの「毒蛇の由来」についての話しぶりからして、その旅にまつわることを詳しく物語ったに違いありません。「其外いろいろ物語る」とあるから、広重は興に乗ってそのおばあちゃんの話を聞き続けたのです。おそらく広重は聞き上手でもあったのでしょう。「粉麦の焼餅をちそう」になりながら、広重はおばあちゃんの話に耳を傾けました。さて、このおばあちゃんは、何を思い立ってか、寺社巡りに出たわけですが、その行程は、信濃善光寺→江戸→江の島→鎌倉(鎌倉→江の島であった可能性も)→大山でした。おそらく甲州街道を歩き下諏訪から中山道に入って、途中長野の善光寺に向かい、善光寺から北国街道を歩いて追分で中山道に入って碓氷峠を越え、江戸に至ったのでしょう。江戸見物をしてから、今度は東海道を利用して、途中から金沢道をたどり(あるいは藤沢から江の島道をたどる)、鎌倉や江の島を巡り、それから大山道に入って大山詣でをしたのです。大山からは矢倉沢往還を歩いて足柄峠を越え、それから須走を経由して籠坂峠を越え、甲州に戻ったと思われます。ざっと考えてみても20日ばかりはかかったと思われる長旅を、70半ばの甲斐の山奥の百姓家の女性が、同行者なしでしているのです。寺社詣でを思い至った理由は何か。その経費はどのように工面したのか。寺社で彼女は何をお願いしたのか。「江戸見物」では、どこを回ったのか。「其外いろいろ物語」った話の内容とはどういうものだったか。知りたいことはいろいろありますが、広重は、それらを聞いているのでしょうが、何も詳しいことは記していません。 . . . 本文を読む