鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.11月取材旅行「御坂峠~河口~剣丸尾」 その7

2009-11-11 06:52:30 | Weblog
マーケーザ号という420トンのスクーナー型ヨット(補助機関として蒸気機関を持つ)が、イギリスのカウズという港町を出発したのは1882年(明治15年)1月8日。イベリア半島、地中海などの旅行を経て4月24日にセイロンのコロンボに到着。セイロンの旅行を楽しんだ後、ギルマール一行はコロンボからシンガポールまではフランス郵船のシンド号に乗船。シンガポールからふたたびマーケード号に乗り込み、台湾を経由して琉球に上陸(6月28日)。3日ばかり滞在した後、日本へ向けて出航し、7月4日に横浜に到着しました。横浜で通訳や写真師(臼井秀三郎)を雇ったギルマール一行は、最初の日本旅行として、富士山の周囲をぐるりと回ることを決め、7月8日に横浜を人力車に乗って出発しました。暑い盛りであり、国内ではコレラが大流行していました。ギルマール一行がこの真夏の最初の日本旅行で悩まされたのは、下肥(肥料)の糞尿の臭いであり、旅宿における蚤や蚊の襲来、雨によってぬかるんだ泥濘の道、外国人一行を一目見ようと集まる群集でした。蚤や蚊の襲来が外国人旅行者を悩ませるものであったことは、他の外国人旅行者の記述にもひんぱんに出てきますが、ギルマール一行も例外ではありませんでした。とくにギルマールは、蚤や蚊の遠慮のない襲来には相当に閉口したようです。ギルマール一行は7月13日に河口村の旅宿に泊まっていますが、ここで彼らは「不快のどんぞこ」を経験。それは「無数の蚤と蚊」の「襲撃」でした。ギルマールは次のように記しています。「我々はその時には蚤袋が絶対に必要であることには気が付いていなかった。後でそれが絶対に必要であることを悟った。蚤袋は上等な麻の袋で、足の部分を覆うところはないが、腕を覆う部分はある。ただし、その部分の端は閉じている。手や指を覆う部分はない。その袋は首の部分できつく締めるようになっている。実際、その時代、その蚤袋なしには日本を旅行することはできないと言われていた。しかし、今述べたような障害を別にすれば、この地域が大変魅力的な場所であることを認めないわけにはゆかない。我々は河口湖に映る富士山のすばらしい写真をいくつか撮ることができた。そして、夜に赤軍(蚤と蚊)と戦闘したことをほとんど忘れてしまったのである。」翌日の夜は藤野木に泊まりますが、そこには蚤や蚊はいなかったため、彼らは安眠することができました。 . . . 本文を読む