鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

山梨県立博物館・企画展「甲斐道をゆく」について その5

2009-11-02 06:14:19 | Weblog
企画展「甲斐道をゆく」の「近代の道と鉄道」は、横浜開港と甲州商人の活躍、「道路県令」といわれた藤村紫朗、明治13年(1880年)の明治天皇の巡幸、中央線の開通、馬車鉄道(富士馬車鉄道・都留馬車鉄道)などに関する展示でした。横浜開港と甲州商人で登場してくるのは、篠原忠右衛門や若尾逸平・幾造兄弟ら。横浜~甲府間は八王子経由(甲州街道経由)でおよそ130km。この間で情報のやりとりをいかに早く行うかが、生糸相場の変動の中で利益を得るか否かのポイントでした。藤村紫朗は、道路や学校などの整備を積極的に進めましたが、それは県民に大きな負担を強いるものでもあったことを知りました。明治13年(1880年)の天皇巡幸は、総勢約400人。上野原に6月17日に入り、甲府に3泊して23日には長野県へ入っています。足掛け7日間の甲州巡幸(といっても甲州街道沿い)。『明治天皇御巡幸記』(昭和14年刊)に詳しい記述がある。中央線の建設工事が開始さたのは明治29年(1896年)12月。ちなみにこの年11月に樋口一葉(奈津)は亡くなっています。甲府駅が開業したのは明治36年(1903年)の11月。6年余の歳月と当時における1千万円という巨費が掛かりました。最大の難関であったのは笹子峠。笹子トンネルの掘削工事は困難を極めました。全長は4656mで当時の国内のトンネルとしては最長でした。この鉄道の開通によって、およそ3日を要した甲府~東京間は、たったの6時間に短縮されました。もし一葉がもう数年長生きしていたならば、きっとこの中央線(鉄道)を利用して中萩原村を訪れていたことでしょう。甲府駅における開通式には20万人もの人々が集まったという。この鉄道の開通が、従来の諸街道の宿場町にどれほど大きな変化をもたらしたかは容易に推察することができます。黒野田宿しかり、藤野木宿しかり。常設展には、明治40年(1907年)の大水害の展示や説明が詳しくなされていました。この明治40年の大水害については、前に触れたことがありますが、今でも山梨県民の記憶に強く刻み込まれている未曾有の大水害でした。山本周五郎の祖父母や親戚のものたちが、山津波で一瞬にして命を失ってしまったのも、この明治40年の大水害でした。山本周五郎の本名は、清水三十六(さとむ)。明治36年に生まれたからです。大水害は、したがって彼が4歳の時の出来事でした。 . . . 本文を読む