鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.11月取材旅行「御坂峠~河口~剣丸尾」 その最終回

2009-11-14 07:05:12 | Weblog
 湖畔に下りていくと、そこは河口湖の湖水の波が小刻みに打ち寄せる浜のようになっていました。「富久澄キャンプ場」と記された白いボートが数隻並べられていました。

 さざ波のある湖面の広がりの向こうに、雪をかぶった富士山の全貌が見事にくっきりと見えました。その見晴らしのよい産屋ヶ崎の突端の崖に、まるで崖の窓から富士山を見晴るかしているかのように「岡田紅陽像」がありました。

 「岡田紅陽像 題字横山大観 碑文徳冨蘇峯 彫塑朝倉文夫」とある。岡田紅陽は富士山を写した高名な写真家でした。

 この「岡田紅陽像」の下の浜で、平たい岩に座り、湖を横切る遊覧船や湖上で魚釣りをするボートを眺めながら、昼食を摂りました(12:25)。

 12:45に出発。

 河口湖畔の、歩行者専用のウォーキング・トレイルに入り、右手の湖畔べりに咲くコスモスの花などを眺めながら、歩道を進みました。

 左手は、浅川(あざがわ)温泉街。いわゆる河口湖温泉郷であり、窓から富士山を真正面に眺めることができるホテルや旅館が、通り沿いに並んでいます。

 県営無料駐車場を右手に見て、「遊覧船ロープウェイ入口」バス停を過ぎたのが13:12。

 右手の湖畔べりに、「昭和10年洪水高2.50m」「昭和58年洪水高2.83m」「昭和13年洪水高3.07m」を示す水深計のようなものが立っていました。大雨による水害は、よほど深刻なものであったようです。

 船津浜(ふなつ)は、現在は遊覧船が発着するところ。この船津浜にも温泉街があり、「船津浜温泉街」と書かれたバス停がありました。「畳岩」というのがあり、足を踏み入れてみました。なるほど、このあたりは船を停泊させ、また発着させるのに適した地形になっています。河口村と船津浜は、かつては渡し舟で結ばれており、産屋ヶ崎を越える山道を避ける人々が、この渡し舟を利用して対岸に渡ったのです。その舟の上からは、天気がよければ富士山の全貌を視野におさめることができました。現在は河口湖大橋が両岸を結んでいます。

 少し戻るようなかたちで河口湖商店街を抜け、「河口湖通り」を通って、富士吉田・山中湖方面へとつながる道に入り、やがて「上の段」交差点にぶつかりました。

 この「上の段」交差点付近が、実は、『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』P16上の写真の撮影地点であるようです。

 この写真には「河口湖から見た富士山」とありますが、河口湖はどこにも写っていません。河口湖から写したとすれば、河口湖南岸の船津浜付近から撮影したことになりますが、そこにはこのような風景の広がりは見られません。撮影したのはおそらく鎌倉往還の路上。ということになると、これは河口湖から見た富士山ではなく、河口湖付近から見た富士山ということになる。では河口湖付近とは具体的にどこかというと、それはどうも「上の段」の交差点付近。上吉田を出て、このあたりに来るまでの道中で、この写真を臼井秀三郎が撮影したのです。

 場所をほぼ確定するポイントとなるのは、写真左端中央にある丘のようなもの。そしてもう一つ、手前に見えるゴツゴツした岩や石が熔岩流であるということ。産屋ヶ崎で会ったおじさんは、これは熔岩流だ、とすぐに指摘しました。しかし場所はどこかわからない、ということで、地元の人にもわからないところでした。

 さて、左端の中央の丘のようなものは、私が判断したところでは、もう少し進んだ右手に「Jマート」という店舗があって大きな駐車場があるのですが、その駐車場の奥に見える丘がどうもそれであるようです。

 もしそうであるならば、その丘の左側には現在「富士急ハイランド」の巨大ジェットコースターが見えるから、この古写真に見える丘の左手には「富士急ハイランド」が現在は存在することになる。

 この人家が一軒もなく、熔岩流の名残りである岩や石が散在し、また草っぱらが広がる台地のようなところ(富士山のすそ野)は、現在は、人家が密集し、そして富士急ハイランドなどの巨大施設や店舗などが存在するところに変貌しているのです。

 左手には「高尾山」と額が掛かる、朱色の鳥居のある神社の杜がありました(13:38)が、もしかしたらこのような神社の杜に休憩かたがた、荒涼とした平原の広がりの向こうの富士山を撮影したのかも知れません。

 「新倉(あらくら)」交差点を過ぎると、通り右手に「御坂みち」の看板がありました(13:52)。このあたりの鎌倉往還も「御坂みち」と呼ぶのであるらしい。

 左手に「最乗塔」や「「丸尾地蔵堂」がありましたが、このあたりは戦国時代に武田と北条の合戦場であったところ。

 中央高速の高架を潜ると、右側は富士急ハイランド。

 右手にローソンを見て、「剣丸尾」バス停に着いたのが14:03。

 そのバス停で甲府行きの富士急バスを待ち、それに乗り込んで、御坂峠入口に停めてある車に戻るべく「藤野木」バス停へと向かいました。

 ところで、この「丸尾(まるび)」とか「剣丸尾(けんまるび)」という変わった地名ですが、これは熔岩のことをさす富士山特有の呼称であることを、後で『富士吉田市史 民俗編第一巻』で知りました。

 「ヤマトタケルノミコト」が、このあたりで、草薙剣(くさなぎのつるぎ)をふるって草をなぎたおして、敵に火で囲まれた危難を無事くぐりぬけたという故事から、熔岩が「剣丸火」と言われていたのが、「剣丸火」を略して「丸尾」というようになったというのです。「丸尾」と書くのは、原意を失って仮用した文字であるとも。

 「丸尾」という文字がついた地名は、「剣丸尾」以外にも、いくつかこの地域に散らばっていますが、これは熔岩や熔岩の広がる原っぱをさすものであるようです。

 この熔岩流の台地が形成されたのは貞観6年(864年)のことで、この年の富士山の大噴火により摂氏1300℃もの熔岩流がこの富士山北麓を襲い、堆積したその熔岩流の厚さは約2mにも達したという。

 貞観6年といえば、河口に浅間神社が創建される1年前のことでした。

 富士急ハイランドのあるあたりは、つい最近まで熔岩流がゴツゴツしていて手の付けられない不毛の地であったという。

 臼井秀三郎が、明治15年(1882年)のおそらく7月13日、吉田から河口湖に向かう道筋で撮ったこの古写真には、今から127年前においてもまったくの不毛の地であった富士山北麓の「丸尾」(熔岩流)の荒涼とした平原が、その向こうに秀麗をのぞかせた富士山とともに、しっかりと写し撮られているのです。


 終わり


○参考文献
・『富士山御師』伊藤堅吉(図譜出版)
・『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』(平凡社)
・『富士吉田市史 民俗編第一巻』(富士吉田市)


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