鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

歌川広重の歩いた甲斐道 その1

2009-11-18 06:34:30 | Weblog
 広重の『甲州日記』というのは、天保12年(1841年)、広重が甲府道祖神祭の幕絵を描くために甲府に赴くのですが、その時の甲州旅行と甲府滞在のことを書き留めた日記であり、前半の4月部分である『天保十二丑とし卯月日々の記』と、後半のスケッチと十一月部分の日記である『旅中 心おほへ』によって構成されています。

 『日々の記』は関東大震災で焼失し、また『旅中 心おほへ』の方も海外に渡って行方不明となっていましたが、近年アメリカで再発見されれたという。

 この再発見された『旅中 心おほえ』の図版解説と翻刻は、この『研究報告書』のP4~P24にわたって掲載され、また『日々の記』の翻刻と註釈が、P25~P35にわたって掲載されています。

 P39~40には、折込で、表1「天保丑とし卯月日々の記」スケッチリスト、P94~95には「甲州日記・甲府道祖神祭関係年表」、P96には「広重の甲州旅行ルート」、さらにP97には「甲州日記・甲府道祖神祭関係 参考文献」など、広重の歩いた甲斐道を調べるのにたいへん参考になる「まとめ」がされています。

 この天保12年の『甲州日記』を見てわかることは、この年の甲州旅行において、広重は、甲州街道・御嶽道・身延道は歩いていることは確実ですが、御坂道についてはわかりません。しかし、日記には残っていないけども、広重がこの年に御坂道に足を踏み入れた可能性は残されています。

 広重は御坂道を実際に歩いたことはあるのだろうか。もし歩いたとしたら、それはいつのことか。

 その疑問は、この『調査報告書』からは解決することはできませんでした。

 広重はこの年11月20日、甲府を朝六つ半時に出立して甲州街道を東進し、江戸に向かっています。

 では、御嶽道や身延道はいつ歩いたかというと、11月の2回目の時ではなく、4月の第1回目の時であるようです。

 新津健さんは、4月の甲府での幕絵仕事が終わってから以後のことと推測され、「御嶽・身延行は第一回目の甲府滞在中に伴うものと考えた」と記しています。しかも、身延道を通って、それから東海道に出て江戸へと向かったのではなく、いったん甲府へ戻ったようだ(スケッチの記載順から)とも記しています。

 第2回目の甲府行きの復路は甲州街道を利用していることは日記の記述から確実です。

 さて、広重の歩いた甲斐道については、同書P60~69に、新津健さんの「甲斐の道中案内と広重ルートの検証」という論文があるので、その論文を中心に、見ていきたいとおもいます。


 続く


○参考文献
・『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭 調査研究報告書』(山梨県立博物館)
・『甲斐道をゆく 交流の文化史』(山梨県立博物館)


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