江戸の真下専之丞を頼るべく、安政4年(1857年)の4月6日の朝、中萩原村を出立した樋口大吉と古屋あやめは、この日は下黒駒あたりから「御坂みち」に入り、駒木戸の番所を過ぎて、夕刻頃に藤野木宿に到着(宿泊したのは一説によれば「松本屋」)。翌4月7日早朝、藤野木宿を出立して、御坂峠を越え、河口・吉田を経由して、当日夕刻に郡内山中村に到着し、「鳴海屋」に宿を取りました。御坂峠を下る途中、また河口村に出てから、雪をかぶった秀麗な富士山を間近に見ていると思われます(天気がよければ)。藤野木から「三ツ峠入口」バス停付近までの峠道は、ルートはかつてのルートそのものか、それから大きくは外れないものと思われ、二人が息を切らせつつたどった山中の道。甲府付近の昇仙峡を見物し、また富士川下りを楽しむべく、横浜を出立したギルマール一行と随行カメラマンの臼井秀三郎らは、明治15年(1882年)7月13日に山中湖、吉田村を経由して河口村に到着。そこで宿を取り、翌14日の昼食後、その村の写真を撮ってから藤野木に向けて出発。御坂峠を越えていきました。藤野木宿ではどこに泊まったかはわからないが、河口村の宿と違って蚤や蚊がおらず快適に眠ることができました。翌15日の朝は快晴で、臼井は谷の写真を撮影。午前8時に甲府に向けて出発。沿道は広い範囲にわたって注意深く耕作されており、ジャガイモや麦、そして桑などが栽培されていました。桑畑はもちろん養蚕のためのものであるでしょう。ギルマール一行は晴れ晴れとした谷を通り抜け、小さなきれいな場所を見つけて、そこでグループ全体の写真(記念写真)を撮影。その後、1マイルか2マイル先に進むと、谷はようやく開け、谷を登り降りして上黒駒に一行はたどりついたのです。私は、そのギルマール一行の行程を、逆にたどっていることになります。吉田村や河口村については興味深い記述があるのですが、それについては、おいおい写真とともに見ていくことにしたい。 . . . 本文を読む