鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.11月取材旅行「御坂峠~河口~剣丸尾」 その5

2009-11-09 06:43:06 | Weblog
その土地のかつてのようす(生業〔なりわい〕や景観を含む)を知るためには、現地に赴くのが一番ですが、現地に行って見てみればそれがすべてわかるというものではなく、現地のお年寄りに話をうかがったり、古写真(幕末・明治以降)や絵画資料(大正・明治以前)と照らし合わせたりするとともに、やはり文献資料にあたることが大事です。それらをフルに活用して、かつてのようすを頭の中で再現していくわけですが、聞く人も活用する資料も一人では限られていて、再現した「像」がどれまでかつてのようすに近付いているか覚束ない部分はありますが、しかし自分で出来る範囲でやっていくしかありません。しかし、そのような作業を続けていくと、かつてのようすが新鮮に立ち現れてきて、自分の思い込みによる浅薄な知識が、次々と打ち壊されていくのを実感して、わくわくとしてくるのも事実です。今回の取材旅行でもそういったわくわくした思いを感じました。まわりの山(富士山を含めて)の形やその山稜の重なり具合はほとんどまったく変わらないものの、その他の、村や町、通りなどの景観は、あたりまえのこととはいえ、ヘンリー・ギルマール一行がここを通過した明治15年(1882年)7月のそれとは大きく変貌しているのです。それ以前の景観と、明治15年の景観とは、それほど大きくは変わってはいなかったと思われます。樋口一葉の両親がここを江戸へ向けて歩いていった安政4年(1857年)の沿道の景観は、ギルマール一行が見たものと、それほど大きくは変わらなかったと思われます(それでも微細に見ていけば、家の造り、神社のようすなどは、生業の変化や廃仏毀釈の関係でそれなりに変化しているはず)。明治以降、とくに昭和になって大きく変貌しているということをまず頭にしっかり入れておかないと、現在の景観を見て過去のようすを推測するのは危険をともないます。『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』のP16上には、「河口湖から見た富士山」という写真が載っていますが、この撮影地点については地元の人に聞いてもわからなかったものでした。この写真は河口湖からのものではない。ではどこからか、ということは後に記しますが、地元のお年寄りに聞いてもわからなくなっているほど、景観は大きく変貌してしまっているのです。127年前の、富士山北麓あたりの鎌倉往還の沿道のようすは、この写真のようなものであったのです。 . . . 本文を読む