鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

歌川広重の歩いた甲斐道 その10

2009-11-28 06:47:26 | Weblog
 「座頭ころがし」には木樋で湧き水を引いて、それで飲み水を貯めている峠の茶屋の風景が描かれています。広重は天保12年(1841年)の4月4日、この犬目峠を越え、「茶屋しがら木」に立ち寄っていますが、解説には、「本図も茶屋しがら木であろうか」とあります。この犬目峠からは富士山が見えました。『日々の記』には「此坂道、ふじを見て行く」とある。ここにあった茶屋「しがら木」は、3月1日に開店したばかりで、女将もその夫も江戸新橋の者でした。もとは仕立屋の職人であったという。居候(いそうろう)も一人いて、これも「江戸者」でした。

 その「しがら木」では、「だんご、にしめ、桂川白酒、ふじの甘酒、すみざけ、みりん」などが売られていました。

 「見世少々きれいなり」と広重は記しています。

 3月1日に開店したばかりだから、「きれい」なのは当然でしょうが、「江戸者」でもと「仕立屋職人」がやっているわりには、「桂川白酒、ふじの甘酒、すみざけ、みりん」などが売られているなど、かなり手広くやっているよう。

 もしこのスケッチが茶屋「しがら木」を描いたものであるとすると、広重はその「しがら木」の、木樋で山からの水を引き、それを飲み水などに利用しているところ(設備)のたたずまい・風情に興味を抱いたらしいことがうかがえます。チョロチョロと清冽な水が流れ落ち、器に貯まっている光景が、いかにも涼しげであったのでしょう。茶屋自体よりもその設備の方に広重の関心は向いています。

 「犬目峠」は、富士の名所として知られているものの、実際には富士が見えるところは数ヶ所しかないという。峠道でずっと富士山が見えるというわけではないのです。解説には、現在犬目峠付近の道は廃れており、スケッチの場所は特定することができない、とあります。

 坂道を登って行く途中に、いきなり左手方向、山越しに富士山が顔をのぞかせたのでしょう。このスケッチ、左頁にはその富士山が描かれ、右頁には崖の上に張り出した茶屋が描かれています。この茶屋からも、とうぜんに富士山の眺望を楽しむことができたでしょう。この茶屋が「しがら木」であるとすると、その通り隔てた右側の崖際のところに、山中の湧き水を引いた木樋と、その湧き水を貯める場所があったということになります。

 「しがら木」の江戸新橋のもと仕立屋職人であった夫とその妻は、どういう経緯でここに茶屋を開いたのでしょうか。またそこに居候をしているやはり江戸者は、どういう経緯でそこに居候をしていたのでしょうか。

 広重はその経緯を詳しく聞きだしていると思われますが、それについては何の記載もありません。

 「高尾山本社」については、かなり詳しくその伽藍配置が描かれています。

 「一面ニ大樹繁茂」とあり、「額堂 堂朱 銅屋根 玉垣朱 鐘楼 神楽殿 やくし堂 二王門 石ノ塔」の書き込みがあります。

 左手に進んで行くと、大門をくぐって方丈(大本坊)に至りますが、その部分は次頁(「大善寺」)の上半分に描かれています。

 これは、スケッチが時系列的に描かれたとすると、かなり不自然な描き方で、どういう描き方をしたのかよくわからない。前頁に続く形で上部が描かれ、出来た下部の余白に、後に「大善寺」を描いたということでしょうか。

 この大善寺の薬師堂は、現在、国宝になっています。

 「酒折宮」の右頁に描かれているのは日川沿いの景観らしい。その左に葡萄の葉が一枚描かれています。左頁は酒折宮の社叢を遠望したもの。「甲斐を旅する歌人や文人、国学者は必ず立ち寄る旧跡で、旅行記や地誌にもよく登場する」ところでした。

 「善光寺」は、もちろん長野の善光寺ではなく甲府の善光寺。右頁に善光寺の境内が描かれています。信濃善光寺の本尊を武田信玄が移して建設されたもの。参道の敷石は「三丁程」もあり、その両側には人家が軒を連ねていました。

 この左頁と次の頁には、11月(天保12年)の10日間の日記が記載されています。


 続く(次回が最終回です)


○参考文献
・『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭 調査研究報告書』(山梨県立博物館)


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