鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

歌川広重の歩いた甲斐道 その2

2009-11-19 06:55:42 | Weblog
 まず第1回目の甲府行きの旅から見ていきましょう。

 広重が江戸を出立したのは、天保12年(1841年)の4月2日、朝五ツ時。甲州街道を進み、四ツ谷新町の十二社(じゅうにそう・現熊野神社)でまず休憩。荻窪・下高井戸・上高井戸・石原村・府中宿を経て、多摩川を舟で渡り、日野宿を通過して八王子の八日町の山上重郎左衛門方に宿泊しています。

 3日は、八王子千人町から散田村を通過していますが、この散田村あたりから機(はた)を織る家が多くなってきます。駒木野の関所を越しますが、このあたりでも家毎に機織りをしています。

 小仏峠に入り、峠の茶屋で休憩かたがた昼食を摂る。

 峠を下りて、小原宿・与瀬宿・吉野宿・関野宿を経て、諏訪の番所(境川口留番所)を越え、諏訪村を過ぎていきますが、このあたりからも家毎に機を織る音がしてきます。広重は「郡内しま、紬、もめん、色々の織物売る家あり」としています。機を織るばかりか、織った布を売る家もあったことになります。

 上野原宿・鶴川宿を経て、この日宿泊したところは野田尻宿の小松屋。この宿で、広重は妻子連れの桑名藩のある武士から、四天流の居合の型(真剣で)を見せてもらい、また砲術や忍び術の話などを聞かせてもらっています。この小松屋という宿、広いばかりでとても汚い宿であったようだ。

 4日は、野田尻宿の小松屋を出立して、富士山を見ながら犬目峠を越えました。この犬目峠の「しがら木」という茶屋は3月1日に店開きしたばかりで、主人もその妻も江戸新橋の者で、主人はもとは仕立屋の職人であったようです。

 犬目より鳥沢まで馬に乗り、鳥沢から猿橋まで桂川の流れや周囲の山々の「絶景」を堪能しながら進み、猿橋に向かう茶屋で昼食を摂る。

 大月宿を過ぎて桂川に架かる仮橋を渡り、分かれ道で迷って途方にくれていたところ、山から材木を背負って下りてきた村人に道を聞いて下花咲に至り、上花咲・初狩宿・白野宿を経て、百姓勝右衛門という者の家に立ち寄って休憩。そこの老婆から「毒蛇済度の旧地」の碑の由来を聞くとともに、この老婆が、昨年、信州善光寺から江戸見物をして、江の島・鎌倉・大山に参詣したことを知ります。しかもその行程を一人で歩いたということを知って広重は驚いています。

 この日宿泊したところは黒野田宿の若松屋。この若松屋、前日の小松屋に倍して、むさくきたない宿であったようだ。壁は崩れ、床は落ち、地虫が座敷を這い、畳は一応あるものの埃が堆積しているような宿。

 翌日はいよいよ笹子峠越えをするわけですが、このように見てくると、広重は実に気安く道中知り合った人と話しを交わしていることがわかります。

 広重は、この旅行で弟子らしき者は伴っておらず、ただ一人で歩いています。

 桑名藩の武士や、百姓勝右衛門宅の老婆とは、よほど会話がはずんだらしい。

 驚くのは、勝右衛門宅の老婆が、一人で、長野の善光寺参り・江戸見物(おそらく浅草寺に参詣しているのだろう)・江の島詣で・鎌倉見物(鶴岡八幡宮を参詣しているだろう)・大山詣でをしていること。「昨年」というからは天保11年(1840年)のこと。広重は、その老婆の年を「七十七八」としていますから、70半ばでこの老婆は一人旅をしていることになる。

 広重にとって驚きの話だったでょうが、私にとっても驚きでした。

 たまたま立ち寄って休憩した家で、奥から出て来た老婆から、思いも掛けぬ旅の話を聞くことになったのです。

 こういった一人で長途の信仰の旅に出かけるような女性が、この甲斐山中の村にもいたことが、広重の日記からわかるのです。


 続く


○参考文献
・『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭 調査研究報告書』(山梨県立博物館)


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