中沢厚さんの『山梨県の道祖神』によれば、山梨県内の道祖神には石祠におさめられたものもあれば木祠におさめられたものもあり、もちろん露座のものもたくさんあります(圧倒的に多いのは露座)。中沢さんは前者を「祠内像」、後者を「露像」と大きく分類しています。
では道祖神本体にはどういうものがあるかといえば、丸石・双神・単神・文字碑・石棒・陽石・陰石・異形石などさまざまで、双神や単神も、夫婦(めおと)であったり神像であったり神官風であったり僧衣僧形であったりとこれもさまざま。
藤野木(とうのき)のK宅で立派な石祠(扉も石造で観音開き)におさめられた僧衣僧形の石像を見せてもらいましたが、あれはもしかしたら「石祠」の「双神」道祖神であったのかも知れない。戒名のようなものも刻まれていたから、そうではない可能性もある。なぜか菊の御紋のようなものまで刻まれていました。
これらの道祖神の中で、山梨県下において「本流」であるのは「丸石」道祖神だと、中沢さんは指摘しています。
「何といっても特筆さるべきものは、山梨県の丸石を神体とする道祖神」
「山梨県に最も多い丸石神」
中沢さんは、山梨県内にある丸石道祖神は、600から700ヶ所に及ぶだろうと述べられています。
そして、
「丸石信仰は非常に古い信仰」であり、起源は石器時代、すなわち縄文時代にまで遡るものではないか、と推測されています。
丸石道祖神のもっとも集中する地域は、かつての東山梨郡と東八代郡の両郡で、総数のおよそ半分はこの地域に集中しています。
丸棒や陽石・陰石、異形石の道祖神も、起源は石器時代にさかのぼりうるものですが、それに対して「双神像」の方は、「江戸時も中期になってから流行的に作製されたもの」であって、それほど古くからのものではないようです。山梨県内の双神像は約350個ほど、未見のものを加えれば400個ほどはあろうか、と中沢さんは記しています。
「甲府盆地の平坦部に双神の道祖神像は一個も尋ね当てることはできな」く、「山梨県全体からいうと、丸石を祀る道祖神が一般的」だと中沢さんはいう。
では甲府城下の道祖神はどういうものであったかというと、町内ごとに造った木製の小祠(木祠)があって、祠内に納められていたのはおそらく道祖神の御札(おふだ)であったろうと中沢さんは考察されています。
町内ごとに板木(版木)があって、祭礼の時に若者たちが刷って各戸に配ったのだというのです。
平常は、その御札の道祖神を納めた木祠を、店の庇(ひさし)のところへ置いておき(中沢さんは「店の庇へのせておいて」としていますが、どのようにのせていたか、あるいは置いていたかは、具体的には今のところ分からない)、祭礼の時だけ持ち出したものらしい。
正月の九日、十日頃になると、辻々へ古い長持(ながもち)の上に小さい祠(道祖神の御札の入った木祠)を上げ、獅子頭を持ち出して太鼓を打ち、辻々には大きな屋台が出て、12、3歳の子どもたちは歌舞伎を行ったのだという(囃し方の者たちはみな大人)。
ところがこのような盛大な道祖神祭も、明治2年(1869年)、明治政府の禁ずるところとなり、道祖神の御札を納めた木祠は、一社だけを残して全部焼却処分となり、甲府町方の道祖神祠は、金手にある山八幡神社に一社を建てて、それに入れたのだとのこと。
甲斐地方の道祖神の祭礼は、一種無類の祭りであって、維新前にははなはだしく悪風が行われていたためそれが禁止され、それからはかつての賑わいを失ってしまったものであるらしい。
どういう「はなはだしい悪習」であったか、具体的なことは分かりませんが、「廃仏毀釈」や「神仏分離令」、「文明開化」による「淫祠邪教」の類いに対する弾圧の嵐が、維新期においてここ山梨県下でも吹き荒れたことは確実なようです。
同書P175からは、「道祖神の祭」という記述が始まります。
それによると、道祖神の祭礼は、民間習俗として最も大事な小正月行事と重なる形で繰り広げられました。「元日」は、上・中・下に分かれ、上期の元日が「上元」、中期の元日が「中元」(「お中元」の「中元」)、下期の元日が「下元」。上元が1月15日、中元が7月15日、下元が10月15日(いずれも旧暦)。
小正月行事は、この「上元」の日を中心に行なわれます。
小正月行事としては、予祝の田植え、鏡開きが行われ、獅子舞、万才、門付けなどがやってきます。子どもたちが主役の鳥追いやもぐら打ち、成木ぜめなども行われます。マユ玉飾り(「ダンゴバラ」、「ダンゴバナ」とも)がなされ、15日には朝粥や小豆粥を食べます。
村々における「村内祝」は15日も16日も続き、一軒一軒ごとに道祖神大神の御札が配られます。14日の夜の道祖神祭は、主として若者組入りの儀式であり、組入り儀式の司祭役は、必ず道祖神(それに扮した大人)でした。
こういう風に見てくると、道祖神祭は、これから始まる一年の実りや幸せを願う(祈る)ものであり、またこれから大人の仲間入りをする、そして仲間入りを果たした、かつての子どもたちの健やかな成育を祈る(通過儀礼をともなった)祭りであったということがわかります。
そのためにも、外界からの悪霊や邪気、伝染病などの悪疫の侵入を防ぐ必要があり、道祖神こそ、それらの、外界に通じる「道」からの流入を防ぐものとして重要視されたのです。
甲府の道祖神祭の場合は、天保騒動に見られたような天保の飢饉による経済の低迷・沈滞、あるいはひんぱんな異国船の無気味な来航による不安など、そういった閉塞的な状況を打開すべく、「陣幕」として呪術的意味合いを持つものでもある「幕絵を」通り両側に張り巡らすことで、町としての活性化をはかろうとしたものだ、と言うことが出来るかもしれません。
しかしそれにしても、広重の『甲州日記』にうかがえる甲府城下の賑わいは、そういった幕末の甲府城下の閉塞状況を感じさせない。
御幸祭礼には近在近郷の人々が群集し、茅屋町の芝居小屋亀屋座では歌舞伎や狂言が演じられ、しかもその建物の三階には宴会ができるスペースまである。
広重のためには、長さが10m以上はある「細工所」(アトリエ)が用意されており、毎日のように宴会も開かれる。広重も楽しく酒や料理を楽しみ、また会話を楽しんでいる。
田舎に目を転じてみても、あの白根宿近くの勝右衛門宅の老婆のように、経費がそれなりにかかったであろうに善光寺や江戸見物、鎌倉・江の島・大山詣での旅に一人で出た女性もいる。
たしかに黒野田宿の「若松屋」はむさく荒れ果てていたけれども、しかし、一方では天保騒動がおわってから6年近く、活気も見られてきているのです。
広重が甲州街道で出会った人々、道連れになった人々も、おおよそにおいて、一様に明るさを感じさせる(広重の人柄によるのかも知れないが)。
というふうに考えると、甲府城下の商人たちは、すでに天保騒動の打撃から立ちあがり、経済力をすでに復活させ、一致団結して道祖神祭礼に幕絵を飾ることによって、新たな出発を期したのではないか、とも思われてきます。
続く
○参考文献
・『山梨県の道祖神』中沢厚(有峰書店)
・『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭 調査研究報告書』(山梨県立博物館)
では道祖神本体にはどういうものがあるかといえば、丸石・双神・単神・文字碑・石棒・陽石・陰石・異形石などさまざまで、双神や単神も、夫婦(めおと)であったり神像であったり神官風であったり僧衣僧形であったりとこれもさまざま。
藤野木(とうのき)のK宅で立派な石祠(扉も石造で観音開き)におさめられた僧衣僧形の石像を見せてもらいましたが、あれはもしかしたら「石祠」の「双神」道祖神であったのかも知れない。戒名のようなものも刻まれていたから、そうではない可能性もある。なぜか菊の御紋のようなものまで刻まれていました。
これらの道祖神の中で、山梨県下において「本流」であるのは「丸石」道祖神だと、中沢さんは指摘しています。
「何といっても特筆さるべきものは、山梨県の丸石を神体とする道祖神」
「山梨県に最も多い丸石神」
中沢さんは、山梨県内にある丸石道祖神は、600から700ヶ所に及ぶだろうと述べられています。
そして、
「丸石信仰は非常に古い信仰」であり、起源は石器時代、すなわち縄文時代にまで遡るものではないか、と推測されています。
丸石道祖神のもっとも集中する地域は、かつての東山梨郡と東八代郡の両郡で、総数のおよそ半分はこの地域に集中しています。
丸棒や陽石・陰石、異形石の道祖神も、起源は石器時代にさかのぼりうるものですが、それに対して「双神像」の方は、「江戸時も中期になってから流行的に作製されたもの」であって、それほど古くからのものではないようです。山梨県内の双神像は約350個ほど、未見のものを加えれば400個ほどはあろうか、と中沢さんは記しています。
「甲府盆地の平坦部に双神の道祖神像は一個も尋ね当てることはできな」く、「山梨県全体からいうと、丸石を祀る道祖神が一般的」だと中沢さんはいう。
では甲府城下の道祖神はどういうものであったかというと、町内ごとに造った木製の小祠(木祠)があって、祠内に納められていたのはおそらく道祖神の御札(おふだ)であったろうと中沢さんは考察されています。
町内ごとに板木(版木)があって、祭礼の時に若者たちが刷って各戸に配ったのだというのです。
平常は、その御札の道祖神を納めた木祠を、店の庇(ひさし)のところへ置いておき(中沢さんは「店の庇へのせておいて」としていますが、どのようにのせていたか、あるいは置いていたかは、具体的には今のところ分からない)、祭礼の時だけ持ち出したものらしい。
正月の九日、十日頃になると、辻々へ古い長持(ながもち)の上に小さい祠(道祖神の御札の入った木祠)を上げ、獅子頭を持ち出して太鼓を打ち、辻々には大きな屋台が出て、12、3歳の子どもたちは歌舞伎を行ったのだという(囃し方の者たちはみな大人)。
ところがこのような盛大な道祖神祭も、明治2年(1869年)、明治政府の禁ずるところとなり、道祖神の御札を納めた木祠は、一社だけを残して全部焼却処分となり、甲府町方の道祖神祠は、金手にある山八幡神社に一社を建てて、それに入れたのだとのこと。
甲斐地方の道祖神の祭礼は、一種無類の祭りであって、維新前にははなはだしく悪風が行われていたためそれが禁止され、それからはかつての賑わいを失ってしまったものであるらしい。
どういう「はなはだしい悪習」であったか、具体的なことは分かりませんが、「廃仏毀釈」や「神仏分離令」、「文明開化」による「淫祠邪教」の類いに対する弾圧の嵐が、維新期においてここ山梨県下でも吹き荒れたことは確実なようです。
同書P175からは、「道祖神の祭」という記述が始まります。
それによると、道祖神の祭礼は、民間習俗として最も大事な小正月行事と重なる形で繰り広げられました。「元日」は、上・中・下に分かれ、上期の元日が「上元」、中期の元日が「中元」(「お中元」の「中元」)、下期の元日が「下元」。上元が1月15日、中元が7月15日、下元が10月15日(いずれも旧暦)。
小正月行事は、この「上元」の日を中心に行なわれます。
小正月行事としては、予祝の田植え、鏡開きが行われ、獅子舞、万才、門付けなどがやってきます。子どもたちが主役の鳥追いやもぐら打ち、成木ぜめなども行われます。マユ玉飾り(「ダンゴバラ」、「ダンゴバナ」とも)がなされ、15日には朝粥や小豆粥を食べます。
村々における「村内祝」は15日も16日も続き、一軒一軒ごとに道祖神大神の御札が配られます。14日の夜の道祖神祭は、主として若者組入りの儀式であり、組入り儀式の司祭役は、必ず道祖神(それに扮した大人)でした。
こういう風に見てくると、道祖神祭は、これから始まる一年の実りや幸せを願う(祈る)ものであり、またこれから大人の仲間入りをする、そして仲間入りを果たした、かつての子どもたちの健やかな成育を祈る(通過儀礼をともなった)祭りであったということがわかります。
そのためにも、外界からの悪霊や邪気、伝染病などの悪疫の侵入を防ぐ必要があり、道祖神こそ、それらの、外界に通じる「道」からの流入を防ぐものとして重要視されたのです。
甲府の道祖神祭の場合は、天保騒動に見られたような天保の飢饉による経済の低迷・沈滞、あるいはひんぱんな異国船の無気味な来航による不安など、そういった閉塞的な状況を打開すべく、「陣幕」として呪術的意味合いを持つものでもある「幕絵を」通り両側に張り巡らすことで、町としての活性化をはかろうとしたものだ、と言うことが出来るかもしれません。
しかしそれにしても、広重の『甲州日記』にうかがえる甲府城下の賑わいは、そういった幕末の甲府城下の閉塞状況を感じさせない。
御幸祭礼には近在近郷の人々が群集し、茅屋町の芝居小屋亀屋座では歌舞伎や狂言が演じられ、しかもその建物の三階には宴会ができるスペースまである。
広重のためには、長さが10m以上はある「細工所」(アトリエ)が用意されており、毎日のように宴会も開かれる。広重も楽しく酒や料理を楽しみ、また会話を楽しんでいる。
田舎に目を転じてみても、あの白根宿近くの勝右衛門宅の老婆のように、経費がそれなりにかかったであろうに善光寺や江戸見物、鎌倉・江の島・大山詣での旅に一人で出た女性もいる。
たしかに黒野田宿の「若松屋」はむさく荒れ果てていたけれども、しかし、一方では天保騒動がおわってから6年近く、活気も見られてきているのです。
広重が甲州街道で出会った人々、道連れになった人々も、おおよそにおいて、一様に明るさを感じさせる(広重の人柄によるのかも知れないが)。
というふうに考えると、甲府城下の商人たちは、すでに天保騒動の打撃から立ちあがり、経済力をすでに復活させ、一致団結して道祖神祭礼に幕絵を飾ることによって、新たな出発を期したのではないか、とも思われてきます。
続く
○参考文献
・『山梨県の道祖神』中沢厚(有峰書店)
・『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭 調査研究報告書』(山梨県立博物館)
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