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素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

学校へ行くこと

2024年11月10日 | 日記
 先日、新聞に「小・中学校の不登校が過去最多」とあった。文部科学省の調査で全国の小中学校で不登校と判断された児童生徒が過去最多を更新したという。2023年度は前年度を約5万人上回る34万6482人で、11年連続の増加である。

 この記事を読んでいて「学校へ行くこと」について思いが巡った。私も学校現場にいる時不登校の生徒と多く関わってきた。個々それぞれ抱えている事情が違い、ケースバイケースで対処し、「こうすれば良い!」という決め手がないまま退職した。その後も全国的に増加し続けていたことになり一朝一夕に解決できる問題でないことだけは確かである。

 明治になって(1872年)、学制が広く行き渡り全国に二万以上の小学校が設立された頃は、「学校へ行くこと」が、親の都合で働かされる子どもの解放と社会生活で必要な基礎能力(読み・書き・そろばん)の習得が主な役割りだった。

 学校に行けば同世代の仲間と遊び学ぶことができるということが登校する原動力となっていた。このコアな部分はずっと変わらないように思う。

 社会構造の変遷の中で国(社会)にとって都合の良い人間を育成する場ともなっていった。戦前の教育勅語はその最たるものである。戦後の民主主義国家を目指す中では競争原理が強く働き、「学歴」が偏重されるようになる。

 今の学校には、2つの顔がある。1つは「同世代の仲間と共に活動し学ぶ場」としての顔。もう1つは「学力による選別の場」としての顔である。この2つは相容れぬ要素がある。

 私も、現役時代にはこのジレンマに悶々としてきた。例えば、授業をする時、新しい事柄をみんなが理解しできるようになることを願い実践工夫をする。その一方で「選別の場」として点数に差が出るようなテストを作成して成績による順位をつけるということもする。

 言い換えれば「全員が百点をとれるようにと授業を工夫しながら、全員が百点をとれないテストをつくる」という矛盾したことをしていることになる。

 学校の持つ「2つの顔」の矛盾が昭和、平成、令和となっていく中で社会情勢の変化と共に顕在化してきているのではないかと感じる。小手先の対処法ではどうしようもない。ということが今回の調査ではっきりした。

 どうすれば?というところで考えがまとまらない。読書中の尾原宏之さんの【「反・東大」の思想史】(新潮社)はヒントを与えてくれる。
これからも考え続けていかなければならない難問だ。

 
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