素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

終わりと始まりの交錯する季節

2014年03月24日 | 日記
 向かいの小学生が終業式を終えて元気に帰って来た。1,2学期と違って3学期の場合はは何となく気分が違う。「もう終わった」か「やっと終わった」の違いはあっても充実感や安堵感が心に広がる一方で「次は?」という期待感も同時に芽ばえる。この年度末の感覚は私の中ではすっかりなくなってしまったが、現役の方と会って話しをすると刺激され記憶の淵からあぶくのように浮かんでくるものがある。

 卒業式のあり方についての話の中で、帳尻合わせのようなパフォーマンスで卒業式の流れを勝手に断ち切った行ないへの憤りを聞いた。来賓、教師、保護者の中には「感動的な」シーンとして受けとめた方もいたようだが、「それは違うだろう」と言った言葉に共感した。オリンピックの閉会式と同じように卒業式をゴール(終わり)の日と考えてはいけない。ということが根底にある。卒業式は正式には卒業証書授与式というように卒業証書の授与が幹で、その他のことは枝葉である。

 感動は卒業証書が一人ひとりに渡される時に出席者全員が心の奥底で噛みしめていけばよい。そのためには整然とした流れから生み出される粛々とした雰囲気が必要である。私語、勝手な言動があれば気持ちが集中できない。保護者が拍手をするという行為も思い出にひたることを邪魔するものである。

 卒業式をゴール(終わり)の日と考える人は卒業証書授与の雰囲気以外のところで感動を必要以上に求める。私が経験したものでは、金八先生に影響を受けたのか、クラスの生徒の氏名を読み上げる時に、一人ひとりにコメントをはさんでいった担任がいた。式当日、突然やったので生徒はざわつき、進行は間延びし、それぞれの生徒の成長に思いを馳せるよりも心の中はイライラ感で一杯になってしまった。逆に、生徒が授与や退場の時に浅薄な感動を演出して冷めた気持ちになってしまった。卒業の歌に必要以上にこだわりを持ち合唱のための隊形にするために、授与の動きを不自然に、煩雑にしてしまい、「何が大事?何のために?」という思いを強く持ってしまった。

 卒業式はゴールではない。ということをどうやって伝えようかと考えた時があった。課題を多く抱えながら1年、2年と乗り切ってきて、「いよいよあと一年だ」という思いが教師側にも生徒側にも共通してあったので、学年だよりのタイトルを「Last***」とカウントダウンしていくことにした。その時に卒業式の日へのカウントダウンではなく、3月31日を"Last1"とするように数えた。卒業式は通過点にすぎないという思いをそこにこめた。そうすることで取り組む姿勢や発想がずい分変わったように思う。

 ゴールの設定の仕方の大切さは北島康介さんも言っていた。ゴールのタッチ板ではなくその1m先にゴールをイメージすると最後のひと伸びが違うというような内容だったと思う。ちょうど鶴竜が横綱になったが、そのコメントの中で「横綱になれば良いのではなく、もっと先を考えて精進しないと」というのがあった。スポーツ界でも伸びる人と伸びない人の差はこのあたりにもあるのかなと思った。進学でも同じ、希望校に合格することがゴールではない。これらのことはわかっていても実行するのは難しい。

 ブクブクといろいろなことが出てくるが、まとまらなくなってきたのでひとまず蓋をする。
コメント
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