素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

あまりにも不条理な

2014年03月04日 | 日記
 富山県小矢部市の北陸自動車道上り線小矢部川SAで昨日早朝に発生した夜行高速バスの衝突事故で1人だけ亡くなった乗客の小野義広さんのことを今朝の朝刊で読んだ。それによると

 小野さんは宮城県立高校教諭だった2011年3月に東日本大震災に被災。その後、退職して金沢高校の教員募集に応募し採用された。2012年4月から金沢高の教壇に立ち、単身で金沢市内で暮らしていた。「妻と3人の子や、両親は宮城県内で仮設住宅に暮らしている」と話していた。
 先週末に長男の高校の卒業式出席などのため、宮城の家族の元に戻っていて、3日からの勤務に戻る予定で、金沢に帰るためにバスを利用して事故遭った。
という。

 日航ジャンボ機の事故や福知山の脱線事故などの時も生死の分かれ目の非情さについては考えさせられたが、今回のケース、あまりの不条理さに声も出なかった。「もし」が許されるなら、《もし東日本大震災がなかったら》《もし夜行バスで戻るという強行日程を組まなければ》《もし座席が一番前でなかったら》などとついつい考えてしまう。

 星新一のショートショートにも人の死を支配、コントロールする話や伊坂幸太郎さんの死神シリーズにも思いを馳せてしまう。息子も感じるところがあったのか「知らないだけで一人ひとりの寿命は誰かに決められているのかな?」とつぶやいた。

 確かにオギャーとこの世に生まれてから死に向かって歩んでいることは確かである。それがいつ訪れるかわからない。必ず死ぬことだけはまちがいない。人間にとって死との対峙こそが大きな問題であり続けてきたともいえる。

 先に読んだ森本哲郎さんの『サムライマインド』にも正岡子規をとりあげて考察している。その中で紹介された「病床六尺」の中の一節が印象に残っている。

 『余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。』

 不条理な運命を前にすると生と死についてついつい考え込んでしまう。 
コメント
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