2月15日(土)の毎日新聞朝刊のオピニオン欄に同志社大教授 浜矩子さんの「淘汰と共生は二人三脚で」という一文を興味深く読んだ。浜さんはソチの冬季五輪の相も変わらぬお祭り騒ぎに、こんなものよといささか斜に構えつつ、ふとそこに『淘汰と共生の二人三脚』があると気がついたという。
淘汰は弱肉強食、排除の論理。共生は支え合い、包摂の論理。排除と包摂は反対概念ゆえに常識的には両立することはないと考えるのが妥当だが、そこに浜さんは「淘汰なら淘汰に、共生なら共生に徹する。どちらか一辺倒でしか有り得ない。そんなぶきっちょ、我々はグローバル世間を渡り歩くことができるのか」と疑問を抱く。
そこで浜さんはこのところ「人間であるならば淘汰と共生くらい両立させられないはずはない。むしろ、、共生の土台あってこその淘汰だろう。淘汰が生み出すみずみずしさこそ、豊かな共生の源泉だろう。その意味で、共生と淘汰は単に併存するだけではない。二人三脚の関係にあるはずだ。」と主張されている。
ただ、この主張に対する裏づけ材料が欲しいということも正直思ってきたという。淘汰と共生という対峙概念は、人間の営みのどのような場面で、実際に出会うのか。そのようなシーンを探し求めていた浜さんは、それをソチからの映像と報道の中に発見したという。
そして、浜さんはオリンピックのいくつかの具体的シーンを選び、これこそ淘汰と共生の二人三脚の姿である。と話されているが、私は読みながら、義務教育の最後の3年間である『中学時代』というのもそうではないかと考えた。幼稚園受験、小学受験、中学受験など早期に受験を経験する一部の子どもを除けば、自分自身の進路先のドアを自分の手で初めて開けるために過ごすのが中学時代である。自動ドアのように進路先が開く小学校生活とはそこが決定的に違う。
集団の中の相対的な位置関係が自分の進路先のために重要な要素となる。淘汰の世界に否応なく組み込まれてしまう。中学校で教えているとみんなにわかるようになって欲しい、できるようになって欲しいと願いつつ、一方では選別のための差をつけなければいけないという現実がある。全員に100点をとってもらいたが全員が100点をとったら困るという二律背反に一度は悩まされる。
学習場面でも競争を意識させつつ教え合いの大切さも説く。生徒の側から考えても、クラス、学年の仲間は競争相手という側面と支え合い、学び合い、教え合うという関係でつながれているという側面がある。この2つのことを使い分けつつ3年間を充実したものにするということは冷静に考えるとスゴイことである。
相矛盾する心のせめぎ合いを通じて、教師も生徒も成熟していくと思うのだがしんどい作業であることにはまちがいない。自分以外はすべて敵とか人類みな兄弟とどちらか一方に割り切れば心のストレスはなくなる。しかし、いずれも反動がくるというのは過去の歴史を見れば明らかである。
順位や偏差値などで受験競争を煽る時代、それらを否定する時代(私の勤務した枚方市では地元集中運動が20年近く吹き荒れた)が繰り返されてきたように思う。大阪を見る限り競争主義が台頭しているように思う。
自分自身の経験で言えば、競争(淘汰)と支え合い(共生)のバランスがうまくとれている学校が生徒にとっても、教師にとっても居心地の良い学校である。ただ、競争派や人権派問わず極端なサイドからは生ぬるいという批判は受ける。幸いにも私はそういう学校で多く過ごすことができた。私の頭の中には浜さんのいうところの『淘汰と共生の二人三脚の姿』がたくさん記憶として残っている。
教師にとって『淘汰と共生の二人三脚』を学校で実現させていくことは簡単ではない。浪花節ではない冷徹さも、技術も必要である。浜さんも最後にこう締めくくっている「グローバル時代を生きる我々も、二人三脚の鍛錬が必要だ。」 同感である。
淘汰は弱肉強食、排除の論理。共生は支え合い、包摂の論理。排除と包摂は反対概念ゆえに常識的には両立することはないと考えるのが妥当だが、そこに浜さんは「淘汰なら淘汰に、共生なら共生に徹する。どちらか一辺倒でしか有り得ない。そんなぶきっちょ、我々はグローバル世間を渡り歩くことができるのか」と疑問を抱く。
そこで浜さんはこのところ「人間であるならば淘汰と共生くらい両立させられないはずはない。むしろ、、共生の土台あってこその淘汰だろう。淘汰が生み出すみずみずしさこそ、豊かな共生の源泉だろう。その意味で、共生と淘汰は単に併存するだけではない。二人三脚の関係にあるはずだ。」と主張されている。
ただ、この主張に対する裏づけ材料が欲しいということも正直思ってきたという。淘汰と共生という対峙概念は、人間の営みのどのような場面で、実際に出会うのか。そのようなシーンを探し求めていた浜さんは、それをソチからの映像と報道の中に発見したという。
そして、浜さんはオリンピックのいくつかの具体的シーンを選び、これこそ淘汰と共生の二人三脚の姿である。と話されているが、私は読みながら、義務教育の最後の3年間である『中学時代』というのもそうではないかと考えた。幼稚園受験、小学受験、中学受験など早期に受験を経験する一部の子どもを除けば、自分自身の進路先のドアを自分の手で初めて開けるために過ごすのが中学時代である。自動ドアのように進路先が開く小学校生活とはそこが決定的に違う。
集団の中の相対的な位置関係が自分の進路先のために重要な要素となる。淘汰の世界に否応なく組み込まれてしまう。中学校で教えているとみんなにわかるようになって欲しい、できるようになって欲しいと願いつつ、一方では選別のための差をつけなければいけないという現実がある。全員に100点をとってもらいたが全員が100点をとったら困るという二律背反に一度は悩まされる。
学習場面でも競争を意識させつつ教え合いの大切さも説く。生徒の側から考えても、クラス、学年の仲間は競争相手という側面と支え合い、学び合い、教え合うという関係でつながれているという側面がある。この2つのことを使い分けつつ3年間を充実したものにするということは冷静に考えるとスゴイことである。
相矛盾する心のせめぎ合いを通じて、教師も生徒も成熟していくと思うのだがしんどい作業であることにはまちがいない。自分以外はすべて敵とか人類みな兄弟とどちらか一方に割り切れば心のストレスはなくなる。しかし、いずれも反動がくるというのは過去の歴史を見れば明らかである。
順位や偏差値などで受験競争を煽る時代、それらを否定する時代(私の勤務した枚方市では地元集中運動が20年近く吹き荒れた)が繰り返されてきたように思う。大阪を見る限り競争主義が台頭しているように思う。
自分自身の経験で言えば、競争(淘汰)と支え合い(共生)のバランスがうまくとれている学校が生徒にとっても、教師にとっても居心地の良い学校である。ただ、競争派や人権派問わず極端なサイドからは生ぬるいという批判は受ける。幸いにも私はそういう学校で多く過ごすことができた。私の頭の中には浜さんのいうところの『淘汰と共生の二人三脚の姿』がたくさん記憶として残っている。
教師にとって『淘汰と共生の二人三脚』を学校で実現させていくことは簡単ではない。浪花節ではない冷徹さも、技術も必要である。浜さんも最後にこう締めくくっている「グローバル時代を生きる我々も、二人三脚の鍛錬が必要だ。」 同感である。