素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

毎日新聞『余録』の追悼文を2012年8月から拾う

2013年02月06日 | 日記
 昨日の余禄は十二代目市川団十郎さんを追悼するものだった。団十郎という大名跡を20年ぶりに襲名するにあたって、悩んだ末の思い「団十郎を継げば文句を言われるだろう。でも言われないより言われた方がいい」を紹介している。各界で活躍した人が亡くなると故人の業績、エピソード、名言などを紹介しながらの追悼文が掲載される。

 最近、次々と昭和に活躍した人が亡くなっていくという思いにとらわれているが、団十郎さんの死を悼む余録を書き写しながら、昨年8月からの追悼文を拾ってみようとふと思いついた。紹介された故人の言葉、座右の銘も添えておく。

8月、9月はなし。
10月6日:大滝秀治さん:(役に)「つかる、ひたる、ふける」「俳優は錯覚の世界でいかに陶酔できるかだと思っている」
                「目の前の池が芝居で海という設定なら、すぐ海と思い込めるのが役者だ」

10月14日:丸谷才一さん:(パーティでの挨拶を原稿を読みながらすることへの思い)「二度と同じ人が集まらないパーティーで自分の思いばかりを長々としゃべるような挨拶は困る。聞き手あってこその挨拶である。みんなに楽しんでもらえる話題をきちんと話すには原稿にした方がいい」

11月1日:藤本義一さん:(シナリオライターとして師事した映画監督の川島さんからたたき込まれたこと)「プロは嫌なことをするから好きなことができる。アマは嫌なことを避けるから好きなことができない」「とにかく本を読め。大阪に生まれたんならば井原西鶴を読め」
(義一の名前にかけた座右の銘)『蟻一匹炎天下』

11月16日:森光子さん:(下積み時代に詠んだ川柳)「あいつより 上手いはずだが なぜ売れぬ」(後に『はず』に注目して下さいと笑っていた)「私は名女優にはなりたいと思わない。ただ生きている間は一人でも多くに楽しんでもらい、愛される女優になりたい」

12月6日:十八代目中村勘三郎さん:(勘九郎の時、すでにライバル関係であった先代の勘三郎にたいして、よく言っていた冗談「今に犬に勘三郎と名づけ、コラッ勘三郎と言ってやる」(その先代の臨終の時、勘九郎は父の当たり役だった『髪結新三』の舞台いた。病院の酸素テントで父に教わった初役だった時のことを述懐して)「亡くなったのを知らされて夜の部に出たら満員の席が一つだけ空いててね。まるで親父に見られているようで足がガタガタ震えました」

12月11日:小沢昭一さん:(日本各地の消え行く大道芸や門付け芸を記録して歩いたのは、芸能の原点を求めてのことといわれることに対して)「それは半分うそ。子供のころにオモシロカッタことに、もういっぺん再会したかったから。僕の道楽の最たるものだった。」
(俳号は変哲、かつて戯れに詠んだ辞世の句)『志ん生に会えると春の黄泉の国』

12月19日:米長邦雄さん:(兄3人がいずれも東大を出たことについて)「頭が悪いから東大に行った。私は良かったから棋士になった」(史上最年長の49歳11カ月で最高位の名人なった時)「私は菜の花のようなもの。トウがたってから実を結ぶ」(死因になった前立腺がんを患っているとわかった時)「(ああしておけばよかったなどと)過去とケンカをしても仕方がない」

1月17日:大島渚さん:(自らの映画人生を『人ぜいたく』と振り返り、キャスティングも)「一に素人、二に歌うたい、三、四がなくて五に映画スター」(と、表面の演技より人の存在感を重く見た)座右の銘(ハンセン病の歌人、明石海人の言葉)『深海に生きる魚族のように自らが燃えなければどこにも光はない』

1月21日:大鵬(納屋幸喜)さん:(天性を評価されるのを嫌った)「僕は天才ではなく、苦労してはい上がる努力型です」(優勝賜杯を受ける時いつも考えていたのは)「これで来場所はまた大変だな」

1月28日:高橋亨平さん:(福島県南相馬市の産婦人科医として原発事故後、医院で生まれた子の激減に衝撃を受け)「子どもを守るにはどうすればいいかと行動を起こした。内部被ばくの正確な測定にこだわったのは″真実はそこにある”と思ったから」(震災から2か月後に大腸がんが発覚、余命半年と告知されながら、ぎりぎりまで診療を続け、74歳の誕生日を迎えた昨年12月に入院、今年22日に旅立った。取材の録音からの声)「復興とは夢、夢とは子ども、子どもは未来だ」

1月31日:安岡章太郎さん:(小説を自分で書き始めたのは日中戦争下、受験失敗が続いて3浪に及んだ時。)「せめて自分だけでも生きられる小世界を、自身で作るしかない時代であった」(自身の失敗や屈託にまつわる私小説から出発した安岡さんは後に、遠く過去の家系にさかのぼって作品を書き継ぐ。晩年は両親への自らの不孝を悔み記していた)「なぜ死に際にわびをいえなかったか」


 あらためて振り返ってみるとやはり0.0.2.2.3.4と数は増えている。もう一度、″生きざま”を考えるきっかけになったとはいえ2月は団十郎さん一人であればいいのにと思う。合掌。
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