昼過ぎ母親から電話があった。いつも12月の中過ぎに“的矢の牡蠣”を送ってくれるのだが、今年注文のFAXを入れたところ年内の出荷分は残っていなくて無理なので年明けの1月の分を予約したということである。もともと量よりも質ということで出荷量は多くないのだが、加えて今年は大雨のせいで数多く死んだことも影響して例年より数が少ないとのこと。
ドンマイである。需要に追われる12月のものより1月の牡蠣のほうがしっかり育ち美味である。ちょうど昨日“的矢の牡蠣”が特集で取り上げられていたのでその話をした。
ABCテレビ(ch6)18時からの「ウチゴハン」である。番組欄には“伊勢志摩幻のカキ!!ピリ辛炒め”とあった。四川飯店のシェフと一緒に的矢に出向きカキを食するという趣向である。地元でなじんでいる者にとっては「幻のカキ」というタイトルはちょっとオーバーな表現だと感じるが他の産地とは一味違うことは確かである。
ファミリーを前面に出している番組の性質上、的矢で牡蠣の養殖をしている小学生の子供を持つ一家との交流という形で進行していたことは仕方がない。と思ったが、地形など環境面で牡蠣養殖にすぐれているという紹介だけでは他の生産地との違いが出てこないだろうと残念な思いが残った。
やはり、的矢のカキは、この地でカキの養殖を始めた水産学者佐藤忠勇さんのことを抜きにしては語ることはできないだろう。
1927年(昭和2年)、佐藤さんは真珠養殖筏に付着して成長するカキを偶然発見し、養殖に乗り出す。翌1928年(昭和3年)には的矢では当時の他の産地よりカキの生育が早く養殖に適することが分かり、商業化に踏み切った。この時、佐藤さんは「垂下式養殖法」を確立し、「産地直送方式」を採用した。
養殖法の普及と戦時増産当時、垂下式養殖法は画期的であったため、全国にこの養殖法が伝播し、1935年(昭和10年)頃には供給過剰となってカキの価格が大暴落した。しかし、的矢かきは産地直送方式であったため、市場価格の影響を受けずに済むこととなった。産地直送方式であったため“広島のかき”みたいに全国的に知られる存在とはならなかった。
第二次世界大戦中は食糧増産の意味もあり、真珠の養殖が抑制された一方、カキの養殖は奨励された。このため、的矢かきの生産高も増加した。しかし、戦後は一転して真珠養殖が奨励されるようになり、カキの養殖高は減少した。これにはアメリカ軍が「日本のカキは不衛生だから、食べないように」と指示を出したことも影響大であった。
この言葉を聞いた佐藤さんは再び奮起し、生でも安心して食べられる「無菌かき」作りの研究を開始する。1945年(昭和20年)、紫外線で殺菌した海水を利用したカキの浄化法を考案、1955年(昭和30年)に「オゾン・紫外線併用殺菌海水装置」の特許を取得した。この技術は的矢かきのブランド力を一層高め、欧米にも知られることとなった。
2001年(平成13年)、三重県の地域ブランド・三重ブランドの第1号認定の際に松阪牛・伊勢えび・真珠・あわびなどの産品と共に的矢かきも認定され、2008年(平成20年)に更新されている。認定事業者は佐藤養殖場1社のみである。
佐藤養殖場(←クリック)
佐藤さんの開発した浄化法による“浄化減菌かき”こそ“的矢かき”の真髄である。そのことが番組では抜け落ちていたのである。もう1つは中華料理に仕立てたが、これもAJINOMOTOがスポンサーなので仕方がないとは思うが、それならばことさら“的矢のかき”にこだわる必要はなかった。
“的矢のかき”は産地直送方式をとっていたので全国版ではなく“知る人ぞ知る”という存在であった。私が知ったきっかけは高校時代であったと思う。志摩観光ホテルの有名な高橋シェフが「的矢のカキだけは調理しないで、レモンを添えて生で出すしかなかった」とインタビューで答えているのを新聞で読んだ時であった。地のものをふんだんに使ったフレンチで“志摩観の高橋”として世界的に知られた存在であった名シェフに手を加えないで出すのがベストと言わせた“佐藤のカキ”が私の口に入ったのは働き始めてからであった。とても高価で庶民の食卓にのぼる代物ではなかった。
二中のころは、毎年12月になると、職場の牡蠣好きの人を募って、実家の母の手をわずらわせて取り寄せていた。そのうち母から漁協でも浄化減菌かきを扱うようになったという情報が入った。味はかわらず値段が半分ぐらいなので以後“的矢漁協かき”にしている。
番組では“いかだ荘”の牡蠣づくしの料理も紹介されていたが、これは牡蠣好きの人には超オススメである。私も2~3年に1度は食べに行っているが、牡蠣料理のオンパレードである。新しいメニューも常に開発しているので飽きがこない。
的矢カキは新年の楽しみということにしておこう。
ドンマイである。需要に追われる12月のものより1月の牡蠣のほうがしっかり育ち美味である。ちょうど昨日“的矢の牡蠣”が特集で取り上げられていたのでその話をした。
ABCテレビ(ch6)18時からの「ウチゴハン」である。番組欄には“伊勢志摩幻のカキ!!ピリ辛炒め”とあった。四川飯店のシェフと一緒に的矢に出向きカキを食するという趣向である。地元でなじんでいる者にとっては「幻のカキ」というタイトルはちょっとオーバーな表現だと感じるが他の産地とは一味違うことは確かである。
ファミリーを前面に出している番組の性質上、的矢で牡蠣の養殖をしている小学生の子供を持つ一家との交流という形で進行していたことは仕方がない。と思ったが、地形など環境面で牡蠣養殖にすぐれているという紹介だけでは他の生産地との違いが出てこないだろうと残念な思いが残った。
やはり、的矢のカキは、この地でカキの養殖を始めた水産学者佐藤忠勇さんのことを抜きにしては語ることはできないだろう。
1927年(昭和2年)、佐藤さんは真珠養殖筏に付着して成長するカキを偶然発見し、養殖に乗り出す。翌1928年(昭和3年)には的矢では当時の他の産地よりカキの生育が早く養殖に適することが分かり、商業化に踏み切った。この時、佐藤さんは「垂下式養殖法」を確立し、「産地直送方式」を採用した。
養殖法の普及と戦時増産当時、垂下式養殖法は画期的であったため、全国にこの養殖法が伝播し、1935年(昭和10年)頃には供給過剰となってカキの価格が大暴落した。しかし、的矢かきは産地直送方式であったため、市場価格の影響を受けずに済むこととなった。産地直送方式であったため“広島のかき”みたいに全国的に知られる存在とはならなかった。
第二次世界大戦中は食糧増産の意味もあり、真珠の養殖が抑制された一方、カキの養殖は奨励された。このため、的矢かきの生産高も増加した。しかし、戦後は一転して真珠養殖が奨励されるようになり、カキの養殖高は減少した。これにはアメリカ軍が「日本のカキは不衛生だから、食べないように」と指示を出したことも影響大であった。
この言葉を聞いた佐藤さんは再び奮起し、生でも安心して食べられる「無菌かき」作りの研究を開始する。1945年(昭和20年)、紫外線で殺菌した海水を利用したカキの浄化法を考案、1955年(昭和30年)に「オゾン・紫外線併用殺菌海水装置」の特許を取得した。この技術は的矢かきのブランド力を一層高め、欧米にも知られることとなった。
2001年(平成13年)、三重県の地域ブランド・三重ブランドの第1号認定の際に松阪牛・伊勢えび・真珠・あわびなどの産品と共に的矢かきも認定され、2008年(平成20年)に更新されている。認定事業者は佐藤養殖場1社のみである。
佐藤養殖場(←クリック)
佐藤さんの開発した浄化法による“浄化減菌かき”こそ“的矢かき”の真髄である。そのことが番組では抜け落ちていたのである。もう1つは中華料理に仕立てたが、これもAJINOMOTOがスポンサーなので仕方がないとは思うが、それならばことさら“的矢のかき”にこだわる必要はなかった。
“的矢のかき”は産地直送方式をとっていたので全国版ではなく“知る人ぞ知る”という存在であった。私が知ったきっかけは高校時代であったと思う。志摩観光ホテルの有名な高橋シェフが「的矢のカキだけは調理しないで、レモンを添えて生で出すしかなかった」とインタビューで答えているのを新聞で読んだ時であった。地のものをふんだんに使ったフレンチで“志摩観の高橋”として世界的に知られた存在であった名シェフに手を加えないで出すのがベストと言わせた“佐藤のカキ”が私の口に入ったのは働き始めてからであった。とても高価で庶民の食卓にのぼる代物ではなかった。
二中のころは、毎年12月になると、職場の牡蠣好きの人を募って、実家の母の手をわずらわせて取り寄せていた。そのうち母から漁協でも浄化減菌かきを扱うようになったという情報が入った。味はかわらず値段が半分ぐらいなので以後“的矢漁協かき”にしている。
番組では“いかだ荘”の牡蠣づくしの料理も紹介されていたが、これは牡蠣好きの人には超オススメである。私も2~3年に1度は食べに行っているが、牡蠣料理のオンパレードである。新しいメニューも常に開発しているので飽きがこない。
的矢カキは新年の楽しみということにしておこう。