高校の教科書に、政治学者の丸山真男氏の書いたものがあった。『「である」ことと「する」こと』という禅問答みたいな題であった。岩波新書の『日本の思想』の中にあるのだが、昨今の政治の動きを見聞きしていて、ふとこの本のことを思い出し、本棚から取り出した。
高校生であった私に一番インパクトがあったのが“権利の上にねむる者”という言葉であった。
その具体例として最初にあ「時効」という制度についてである。金を借りて催促されないのをいいことにして、ネコババをきめこむ不心得者がトクをして、気の弱い善人の貸し手が損をするという結果になるのはずいぶん不人情な話のように思われるけれども、「時効」という規定の根拠には、権利の上に長くねむっている者は民法の保護に値しないという趣旨も含まれている。
請求する行為によって時効を中断しない限り、たんに自分は債権者であるという立場を喪失する。という話が強く印象に残った。そして、その共通の精神を日本国憲法に見るのであるである。
憲法第十二条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」を次のように読みかえている。
「国民はいまや主権者となった。しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目ざめてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起こるぞ」という警告になっている。そして続ける。
私たちの社会が自由だ自由だといって、自由であることを祝福している間に、いつの間にか その自由の実質はカラッポになっていないとも限らない。自由は置き物のようにそこにあるのでなく、現実の行使によってだけ守られる。いいかえれば 日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです。
その意味では近代社会の自由とか権利とかいうものは、どうやら生活の惰性を好む者、毎日の生活さえ何とか安全に過ごせたら、物事の判断などはひとにあずけてもいいと思っている人、あるいはアームチェアから立ち上がるよりもそれに深々よりかかっていたい気性の持主などにとっては、はなはだもって荷厄介なしろ物だといえましょう。
もう一度肝に銘じておきたい部分である。高校時代に理解できたのはこのあたりだけで、新書の95%の部分は消化できない内容であった。その後、私の頭の中には「~である」(男である。女である。高学歴である。先生である。政治家である。弁護士である。・・・)ということより「何をする」「何をした」を考える回路がつくられたように思う。
高校生であった私に一番インパクトがあったのが“権利の上にねむる者”という言葉であった。
その具体例として最初にあ「時効」という制度についてである。金を借りて催促されないのをいいことにして、ネコババをきめこむ不心得者がトクをして、気の弱い善人の貸し手が損をするという結果になるのはずいぶん不人情な話のように思われるけれども、「時効」という規定の根拠には、権利の上に長くねむっている者は民法の保護に値しないという趣旨も含まれている。
請求する行為によって時効を中断しない限り、たんに自分は債権者であるという立場を喪失する。という話が強く印象に残った。そして、その共通の精神を日本国憲法に見るのであるである。
憲法第十二条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」を次のように読みかえている。
「国民はいまや主権者となった。しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目ざめてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起こるぞ」という警告になっている。そして続ける。
私たちの社会が自由だ自由だといって、自由であることを祝福している間に、いつの間にか その自由の実質はカラッポになっていないとも限らない。自由は置き物のようにそこにあるのでなく、現実の行使によってだけ守られる。いいかえれば 日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです。
その意味では近代社会の自由とか権利とかいうものは、どうやら生活の惰性を好む者、毎日の生活さえ何とか安全に過ごせたら、物事の判断などはひとにあずけてもいいと思っている人、あるいはアームチェアから立ち上がるよりもそれに深々よりかかっていたい気性の持主などにとっては、はなはだもって荷厄介なしろ物だといえましょう。
もう一度肝に銘じておきたい部分である。高校時代に理解できたのはこのあたりだけで、新書の95%の部分は消化できない内容であった。その後、私の頭の中には「~である」(男である。女である。高学歴である。先生である。政治家である。弁護士である。・・・)ということより「何をする」「何をした」を考える回路がつくられたように思う。