令和元年11月度広布唱題会の砌
於 総本山客殿
(大日蓮 令和元年12月号 第886号 転載)
(大白法 令和元年11月16日 第1017号 転載)
本日は、十一月度の広布唱題会に当たり、皆様には多数の御参加、まことに御苦労さまでございます。
本年「勇躍前進の年」も、いよいよ十一月に入り、残りあと二月、全国の各支部ともに総力を結集して、本年度立てた折伏誓願を達成すべく、寸暇を惜しんで折伏に励んでいることと思います。
この広布への戦いにおいて、最も大事なことは、すべての支部が一支部も漏れることなく、たとえいかなる困難・障害があったとしても、あらゆる障魔を打ち払い、御宝前に誓った折伏誓願は必ず達成することであります。
有名な上杉鷹山の書葉に、
「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」
という書葉があります。
「折伏は、折伏をすれば必ず折伏できる」とは、ある人の言葉でありますが、とにかく、まず折伏の行動を起こすことであります。いくら考えても、座していたのでは折伏はできません。とにかく、立ち上がり、動くことであります。
大聖人様は『土篭御書』に、
「法華経を余人のよみ候は、口ばかりことばばかりはよめども心はよまず、心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ」(御書 483)
と仰せであります。この御文の通り、真剣に唱題に励み、大御本尊様への絶対の確信と、断固たる決意を持って折伏に打って出れば、必ず折伏はできます。
『如説修行抄』には、
「今の時は権教即実教の敵と成る。一乗流布の代の時は権教有って敵と成る。まぎらはしくば実教より之を責むべし。是を摂折の修行の中には法華折伏と申すなり。天台云はく『法華折伏破権門理』と、良に故あるかな」(同 672)
と仰せであります。
さらに、同じく『如説修行抄』に、
「権実雑乱の時、法華経の御敵を責めずして山林に閉ぢ篭りて摂受の修行をせんは、豈法華経修行の時を失ふべき物怪にあらずや」(同 673)
と仰せであります。私どもは一人として「法華経修行の時を失ふべき物怪にあらずや」との侮りを受けるようなことがあってはなりません。
そもそも、末法は摂受・折伏とあるうち、折伏をもって正規といたします。されば『御講聞書』には、
「今末法は南無妙法蓮華経の七宇を弘めて利生得益有るべき時なり」(同 1818)
と仰せられているのであります。
末法は折伏をして、初めて「利生得益」があるとの御金言は、まことに大事であります。過去遠々劫から積み重なる様々な罪障も、一切衆生救済の慈悲行たる折伏を行ずることによって、仏様の化を受け、自他共に成仏することができるのであります。
よって『法華初心成仏抄』には、
「仏になる法華経を耳にふれぬれば、是を種として必ず仏になるなり。されば天台・妙楽も此の心を以て、強ひて法華経を説くべしとは釈し給へり。譬へば人の地に依りて倒れたる者の、返って地をおさへて起つが如し。地獄には堕つれども、疾く浮かんで仏になるなり。当世の人何となくとも法華経に背く失に依りて、地獄に堕ちん事疑ひなき故に、とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり。何にとしても仏の種は法華経より外になきなり」(同 1316)
と仰せであります。
「毒鼓の縁」とは既に皆様もよく御承知の通り、毒薬を太鼓に塗り、大衆のなかにおいてこれを打てば、聞こうとする心はなくても、これを聞けば皆、死するように、法を聞こうとせず信じようとしなくとも、やがて煩悩を断じて得道できることを、毒を塗った太鼓を打つことに譬えているのであります。
一切衆生には皆、仏性が具わっております。正しい法を聞き、発心・修行することによって、やがて成仏できるのであり、末法今時では順縁の衆生はもとより、たとえ逆縁の衆生であったとしても、三大秘法の南無妙法蓮華経を聞かせることによって、正法と縁を結ばせ、将来、必ず救済することができるのであります。
されば、私どもは一人ひとりがこの御金言を拝し、末法においていかに折伏が大事であるかを認識し、講中一結・異体同心して、すべての支部が御宝前にお誓い申し上げた折伏誓願を必ず達成すべく、真剣に唱題に励み、その功徳と歓喜と勇気を持って、身軽法重・死身弘法の折伏を行じ、もって全支部が折伏誓願を達成され、一生成仏を計られますよう心からお祈りし、本日の挨拶といたします。
日蓮正宗公式HP
http://www.nichirenshoshu.or.jp/
http://jagihashaku.main.jp/index.htm