何をやるにもしても続けられる人、続けられない人がいる。
そこにはどんな違いがあるのだろうか、とよく考えることがある。
続かれない人を無下に見下しては意味はない、たまたま続けられる人が勝ち誇った勝者の驕りのうちに優越感に浸りたいがためのそれは不健全であり、思いやりに掛ける。
私たちは自分自身のことも知りきることが出来ないのに、なぜ他人のことを知ることが出来ようか、それは思い込みに過ぎない、誤解に過ぎないのではないか、要らぬことに時を使う必要はない。
私は続けられる人の方だと思う、私がなぜそう出来るのかを考えみた。
私は続けられることが出来なくなることを知っているから続けられるのではないかと思った。
何事も続けられないのは事実ではないだろうか。
それゆえ、一つひとつのことに感謝することに大切な意味があるのではないだろうか。
私はカルカッタのマザーテレサのボランティアをしている時に、何千何百と言う死と死に行く人たちに会ってきた、それが私のなかで生を働かせ、死の意味を学ばせてくれたように思っている。
人の死を目の当たりにすると、人は否応なしに何かを感じずには居られない。
例えば、ホームレスへの偏見を持っている人もいるだろう、そうした人であれ、もし行き倒れのホームレスを目の当たりにした場合、どんな心境になるのだろうか、考えてみても良いのではないだろうか。
そして、その次にその前に何か出来るのではないかと行動できるようになれば良いのではないだろうか。
命は永遠ではない、ゆえにかけがえのない日々を私たちは生きている、それをどのように尊いものにしていくかは私たち次第ではないか。
続けられる人はまだ知らぬ自己に会い続けていると言うことに他ならない、本を一冊読めば、読む前の私と読んだ後の私では何かが違うように。
続けられない人は待っているあなたの知らないあなたがたくさんいることに他ならない。
どうか出会ってほしい、あなたの知らないあなたに。