先週の土曜日の山谷の炊き出しにはたくさんのフランス人の子供たちが来ていた。
たぶん40人以上の子供とその付き添いの大人たちも来ていた。
毎年クリスマス前のこの時期に毎年彼らは自宅からそれぞれパンケーキを焼いて、それをおじさんたちのために持ってくる。
炊き出しを配る場所では寒中のなかではあるが大人がギターを弾き、それに合わせて子供たちや付き添いの大人たちがクリスマスの歌を楽しそうに歌っていた。
その歌の輪に入らない子供はカレーをおじさんたちに手渡しているか、そこら中を駆け回っている子もいた。
この日は横須賀の米軍の海軍からも15人くらいのボランティアが来ていた。
だが、日本人のボランティアは少なかった。
海外ではクリスマスを迎えるこの時期にイエスに倣い、貧しい人たちや困っている人たちに奉仕する習慣がある現れだろうと思う、これはアドベント{待降節}に行うべき愛の行いなのだろう。
おじさんたちがフランスの子供たちの歌をどう思ったかは一人ひとり違った感想を持つものだろう。
だが、来たフランスの子たちは歌を歌ったり、はしゃぎ回ったり、そこら中を走り回ったりしていたが、この寒さの中、炊き出しに来る貧しい人たちがいることを肌身で感じ、記憶することであろう。
それを神さまが後にどう計らってくれるのかは分からないが、体験したことが何もなくなる訳では決してないだろう。
寒さを感じた時に、心のなかで路上生活をせざるを得ない人を思ったりもするだろう、ご飯を食べる時にも彼らはご飯を食べられているのだろうかと思ったりするだろう、哀しくなった時に、彼らはどれだけ哀しいことがあったのだろうと思ったりもするだろう。
この日の寒さは一段と厳しかった、私の手、その指先はかじかんで痛みが走ったほどだった。
この痛みが彼らと同じものだとは決して言えない、言えないが私はその痛みに感謝する、なぜなら、ほんの少しでも彼らの状況の中を垣間見たように居られたような気がするからである。
それは思いやりとなり、愛のない私に愛を注いでくれる、愛を生んでくれる糧となるからである。