カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

雪のサンタマリア。

2018-12-13 12:09:41 | Weblog

 一人の司祭も居なくなった江戸時代にある地域の潜伏キリシタンたちは宣教師たちから教えてもらった聖書を命がけで受け継ぎ、日本古来の民間信仰と自らの生活に馴染ませ、彼ら独自の聖書「天地始之事」として語り続けられた。

 もうすぐクリスマスなのでその箇所を紹介しよう。

 「マリアは大雪の夜、旅先の家畜小屋に宿を借り産気づく。寒中のことなので、馬と牛が左右から息を吹っかけて、生まれたばかりのイエスをこごえないようにしてやった。夜が明けると、家主の女房が出てきて、哀れに思い、自分の家に連れて行ったが、薪がないので、大切にしていたはた織りの道具を折って、マリアとイエスの身体をあたためてやった。ご馳走にソバ飯をこしらえて差し出すと、イエスは母のふところから手を出して、それをいただいた」

 まったくと言って良いほど、聖書とは違うものになっているが、この話しを潜伏しながら、250年間、親から子へと代々カクレながら語り続けていた貧しい農民、漁民の姿に心を寄せれば、彼らの信仰の糧となっていた、この話しの美しさが際立つのではないか。

 私は上記の話しを読んだ時に、子供の頃にたぶん日本昔話で見て覚えていたであろう、「鉢木」を思い出した。

 「鉢木」の場合は貧しい武士が大切にしていた盆栽を折って、雪道から来た僧侶に暖をとってあげた話しである。

 潜伏キリシタンの場合、はた織りの道具を折って、生まれたばかりのイエスとマリアに暖をとってあげているのは、どこか繋がっているように思えてならない。

 はた織りを折っては、その後、はたを織ることは出来なくなるにも関わらず、生活の糧となる、その大切なものを捧げると言う点では聖書的なものを物凄く感じる。

 それは何よりも自らの命よりもイエスとマリアが大切だったと言う信仰の証しが描かれているように、私には思えた。

 そしてこの二つの話しには日本人の「おもてなし」の精神が鮮やかに示されている。
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