Nonsection Radical

撮影と本の空間

”話芸”にイラつく

2014年07月04日 | Weblog
某ラジオ番組は、一人のアナウンサーと日替わりのいわゆる”パーソナリティ”がトークを交えて進行していくのだけど、その中の一人に関西の漫才師のダンシがいて、いつもその話しっぷりにイラつく。

ボケとツッコミという”セオリー”が漫才にはあるのだが、これは何十年も変わらずパターン化しており、それをマスターする事が一人前の漫才師であるような感じだ。
パターンにそって各自が中味を変えて話すのだが、関西のように保守的で価値観が出来れば変わらずにいて欲しいと思う土地柄では、それは安心していられる手法なのだと思う。
起用する側も、そのパターンを身につけている人を使えば、番組進行上多少のアクシデントがあっても、パターンに落とし込んで収める事が出来るので安心する部分もあるのだろう。
関東の売れない落語家がみんな同じ話しっぷりで落語を語るように、関西の漫才師はみんな同じ話しっぷりだ。
これは”話芸”なんだろうけど、それでイイのか?と疑問に思うのだ。
話しっぷりがパターン化している事に気づいている者にとっては、はなはだ面白くないのだ。

たとえばゲストに話の玄人ではない人、料理をする人とか、音楽、文芸を語る人とかが来た場合、シロートなので時折”爆弾発言”が出たりする。
するとそれを収拾するのに、漫才の手法を使うのだが、シロートの”ボケ”にクロートが”ツッコミ”を入れると浮いてしまうのだ。
クロート同士の計算し尽くされたボケとツッコミは、その結果も当然予想されたものであるから”話芸”なのだが、シロートの放つ予想外の発言に対応出来ずに慌ててプロの技であるツッコミで収拾しようとするので、鼻につき、面白さを消してしまい、持ち駒のなさが露見してイラつく。
シロートにクロートが突っ込んでどないすんねん、と言いたいのだ。

長い間生きていると、多少の時代の変化も見てきた。
コント55号が既存の笑いのパターンを壊し、さらにツービートがコント55号のパターン化したものを壊した。
そうやって新しい話芸が古いものを壊していったから新たな笑いというものが生まれてきたのだ。
ところが現在の漫才には、その破壊力が感じられないのだ。
旧態依然のパターンを踏襲し、それで良しとする話し手と製作者が安定だけを求めて満足しているような気がする。
それってつまらない事なんじゃないのか?
聴いている側はつまらないんですけど。

それでイイという人がいるから、と思うのか、これじゃぁイケナイと思うのかは当人次第だが、リスクはあっても新しいものに挑戦する方が面白いと思うんだよなぁ。




南海電鉄 河内長野駅周辺
大阪府河内長野市本町
撮影 2014年6月21日 土曜日 09時25分
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