気が付けば、今年も最後の週になってしまった。
バルコニーはもう野菊も終わってしまって、もみじの葉もみんな散ってしまって本当に寂しくなってしまった。
あのカンカン照りの夏のギラギラしていたころを思うと、同じ庭とも思えない。
日差しも弱弱しく、曇った日などはうつうつとしてしまう。
椿のつぼみがたくさんあるが、一つ二つ咲いて、そのあとしばらく、音沙汰なしである。
昨日、つぼみがふたつほころんでいるのを見つけたので、1週間以内に咲くかもしれない。
寂しい庭のなかでも南天は例外で、元気である。その赤い色がますます赤くなっていて、庭に小さなあかりをともしているようだ。
冬の庭に彩を与えてくれるのは、椿と南天ということなのか。
それでもよくみると梅の木に芽がついている。
寒い北風にも耐え、春をこうやってじっと待っているのかと思うと梅の強さを感じる。
そうそう白いゼラニウムも咲いている。元気なのが不思議である。白くて真ん中に小さなピンクの色がついているゼラニウム。
この10年ぐらい我が家の庭にあって親しんできたのだが、その白いのがものすごい強い生命力で咲いている。
一度、コガネムシにやられて枯れそうになったが、息を吹き返し、緑色濃く、咲いている。長い付き合いのゼラニウムである。
遠くからどうやって見つけるのかわからないが、ヒヨドリが椿をめがけて飛来する。梅の木にとまっていることもある。梅の木は頑丈なのでヒヨドリの体重を支えるのに適しているのだろう。
ヒヨドリは、窓のこちらにいる我々の気配を感じるとすぐに逃げてしまうが、それでも椿の蜜に吸い寄せられるようにしてやってくる。
ふとみるとヒヨドリが恍惚として椿の蜜を吸っている。
口の周りに黄色い花粉をつけて恍惚としているのをみると、なんだかおかしい。
おいしいものが好きなんですねと思う。
冬の庭は風が強い日もあって、洗濯物が飛んでしまう危険があるのだが、
南天の赤とぽつぽつ咲く椿と長い付き合いのゼラニウム、そして時折飛来するヒヨドリになごむ。
冬至も過ぎた。これから少しずつ昼の時間が長くなっていくはずだ。
世の中は騒がしい年の瀬であるが、我が家の庭は静かに新しい年の訪れを待っている。
バルコニーはもう野菊も終わってしまって、もみじの葉もみんな散ってしまって本当に寂しくなってしまった。
あのカンカン照りの夏のギラギラしていたころを思うと、同じ庭とも思えない。
日差しも弱弱しく、曇った日などはうつうつとしてしまう。
椿のつぼみがたくさんあるが、一つ二つ咲いて、そのあとしばらく、音沙汰なしである。
昨日、つぼみがふたつほころんでいるのを見つけたので、1週間以内に咲くかもしれない。
寂しい庭のなかでも南天は例外で、元気である。その赤い色がますます赤くなっていて、庭に小さなあかりをともしているようだ。
冬の庭に彩を与えてくれるのは、椿と南天ということなのか。
それでもよくみると梅の木に芽がついている。
寒い北風にも耐え、春をこうやってじっと待っているのかと思うと梅の強さを感じる。
そうそう白いゼラニウムも咲いている。元気なのが不思議である。白くて真ん中に小さなピンクの色がついているゼラニウム。
この10年ぐらい我が家の庭にあって親しんできたのだが、その白いのがものすごい強い生命力で咲いている。
一度、コガネムシにやられて枯れそうになったが、息を吹き返し、緑色濃く、咲いている。長い付き合いのゼラニウムである。
遠くからどうやって見つけるのかわからないが、ヒヨドリが椿をめがけて飛来する。梅の木にとまっていることもある。梅の木は頑丈なのでヒヨドリの体重を支えるのに適しているのだろう。
ヒヨドリは、窓のこちらにいる我々の気配を感じるとすぐに逃げてしまうが、それでも椿の蜜に吸い寄せられるようにしてやってくる。
ふとみるとヒヨドリが恍惚として椿の蜜を吸っている。
口の周りに黄色い花粉をつけて恍惚としているのをみると、なんだかおかしい。
おいしいものが好きなんですねと思う。
冬の庭は風が強い日もあって、洗濯物が飛んでしまう危険があるのだが、
南天の赤とぽつぽつ咲く椿と長い付き合いのゼラニウム、そして時折飛来するヒヨドリになごむ。
冬至も過ぎた。これから少しずつ昼の時間が長くなっていくはずだ。
世の中は騒がしい年の瀬であるが、我が家の庭は静かに新しい年の訪れを待っている。