鶴見俊輔が亡くなった。
今日の毎日で上野千鶴子が追悼文を書いていて、泣けた。
冒頭部分を引用する。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
鶴見さんが、とうとう逝かれた。いつかは、と覚悟していたが、喪失感ははかりしれない。
地方にいて知的に早熟だった高校生の頃から「思想の科学」の読者だったわたしにとって、鶴見さんは遠くにあって自(おの)ずと光を発する導きの星だった。
京大に合格して上洛(じょうらく)したとき、会いたいと切望していた鶴見さんを同志社大学の研究室に訪ねた。「鶴見俊輔」と名札のかかった研究室の扉の向こうに、ほんものの鶴見さんがいると思ったら、心臓が早鐘のように打ったことを覚えている。おそるおそるドアをノックした。二度、三度。返事はなかった。鶴見さんは不在だったのだ。面会するのにあらかじめアポをとってから行くという智恵(ちえ)さえない、18歳だった。
あまりの失望感に脱力し、それから10年余り。「思想の科学」の京都読者会である「家の会」に20代後半になってから招かれるまで、鶴見さんに直接会うことがなかった。それほど鶴見さんは、わたしにとって巨大な存在だった。
「思想の科学」はもはやなく、鶴見さんはもうこの世にいない。いまどきの高校生がかわいそうだ。鶴見さんは、このひとが同時代に生きていてくれてよかった、と心から思えるひとのひとりだった。
鶴見俊輔。リベラルということばはこの人のためにある、と思える。どんな主義主張にも拠(よ)らず、とことん自分のアタマと自分のコトバで考えぬいた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
リベラルということばはこの人のためにある。本当にそうだ。
今の若者には、鶴見さん的な存在がなくて、本当にかわいそうだと私も思う。
上野千鶴子よりは年下だが、私も早熟な高校生だったので、この気持ちは理解できる。
研究室を訪ねる。昔はそういうことが可能だった。
今も可能かもしれないが、大学は以前より閉鎖的になったので、難しいかもしれない。
それに名物の先生は今ではマスコミに出ている中味のないタレント教授ぐらいで、本当の教授は少なくなったので、訪ねる必要を感じない。
一般の人はマスコミに出ている大学教授はどんなに偉いかと思うかもしれないが、マスコミにでるだけで価値がさがるのが大学教授というもの。
マスコミにもてはやされて消耗している教授など、小金はあるだろうが、それだけで、だれも尊敬はしないのである。マスコミに出ないのが本当の教授というものである。
安保関連法の廃案を求めるデモが各地で行われていて、国会前にも人が集まっている。
小田実も死んでしまったし、9条が捻じ曲げられようとしているこの時に、まさに、知の危機的状態にあるこの時に、道を照らしてくれるはずの鶴見俊輔を失ったことは大きい。亡き後、我々はどのようにアベ政権と闘っていけばよいのか。戦前期に逆行する動きをつくる危ない人たちとどう闘うのか。
上野千鶴子では弱すぎるのである。
戦争を体験している鶴見俊輔レベルの思想家はもういないのである。
戦争を知らないがリアルに語れる鶴見俊輔から直伝の世代が頑張らなければならない。
大学改革なんかやって文科省の犬のようになっている場合ではないのである。
もう鶴見俊輔に頼ることはできない。
巨人を失った今、戦後生まれの日本の知識人の実力が真にためされているのである。
今日の毎日で上野千鶴子が追悼文を書いていて、泣けた。
冒頭部分を引用する。
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鶴見さんが、とうとう逝かれた。いつかは、と覚悟していたが、喪失感ははかりしれない。
地方にいて知的に早熟だった高校生の頃から「思想の科学」の読者だったわたしにとって、鶴見さんは遠くにあって自(おの)ずと光を発する導きの星だった。
京大に合格して上洛(じょうらく)したとき、会いたいと切望していた鶴見さんを同志社大学の研究室に訪ねた。「鶴見俊輔」と名札のかかった研究室の扉の向こうに、ほんものの鶴見さんがいると思ったら、心臓が早鐘のように打ったことを覚えている。おそるおそるドアをノックした。二度、三度。返事はなかった。鶴見さんは不在だったのだ。面会するのにあらかじめアポをとってから行くという智恵(ちえ)さえない、18歳だった。
あまりの失望感に脱力し、それから10年余り。「思想の科学」の京都読者会である「家の会」に20代後半になってから招かれるまで、鶴見さんに直接会うことがなかった。それほど鶴見さんは、わたしにとって巨大な存在だった。
「思想の科学」はもはやなく、鶴見さんはもうこの世にいない。いまどきの高校生がかわいそうだ。鶴見さんは、このひとが同時代に生きていてくれてよかった、と心から思えるひとのひとりだった。
鶴見俊輔。リベラルということばはこの人のためにある、と思える。どんな主義主張にも拠(よ)らず、とことん自分のアタマと自分のコトバで考えぬいた。
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リベラルということばはこの人のためにある。本当にそうだ。
今の若者には、鶴見さん的な存在がなくて、本当にかわいそうだと私も思う。
上野千鶴子よりは年下だが、私も早熟な高校生だったので、この気持ちは理解できる。
研究室を訪ねる。昔はそういうことが可能だった。
今も可能かもしれないが、大学は以前より閉鎖的になったので、難しいかもしれない。
それに名物の先生は今ではマスコミに出ている中味のないタレント教授ぐらいで、本当の教授は少なくなったので、訪ねる必要を感じない。
一般の人はマスコミに出ている大学教授はどんなに偉いかと思うかもしれないが、マスコミにでるだけで価値がさがるのが大学教授というもの。
マスコミにもてはやされて消耗している教授など、小金はあるだろうが、それだけで、だれも尊敬はしないのである。マスコミに出ないのが本当の教授というものである。
安保関連法の廃案を求めるデモが各地で行われていて、国会前にも人が集まっている。
小田実も死んでしまったし、9条が捻じ曲げられようとしているこの時に、まさに、知の危機的状態にあるこの時に、道を照らしてくれるはずの鶴見俊輔を失ったことは大きい。亡き後、我々はどのようにアベ政権と闘っていけばよいのか。戦前期に逆行する動きをつくる危ない人たちとどう闘うのか。
上野千鶴子では弱すぎるのである。
戦争を体験している鶴見俊輔レベルの思想家はもういないのである。
戦争を知らないがリアルに語れる鶴見俊輔から直伝の世代が頑張らなければならない。
大学改革なんかやって文科省の犬のようになっている場合ではないのである。
もう鶴見俊輔に頼ることはできない。
巨人を失った今、戦後生まれの日本の知識人の実力が真にためされているのである。