3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

鶴見俊輔が死んだ

2015-07-24 13:04:18 | 現代社会論
鶴見俊輔が亡くなった。
今日の毎日で上野千鶴子が追悼文を書いていて、泣けた。
冒頭部分を引用する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

鶴見さんが、とうとう逝かれた。いつかは、と覚悟していたが、喪失感ははかりしれない。

 地方にいて知的に早熟だった高校生の頃から「思想の科学」の読者だったわたしにとって、鶴見さんは遠くにあって自(おの)ずと光を発する導きの星だった。

 京大に合格して上洛(じょうらく)したとき、会いたいと切望していた鶴見さんを同志社大学の研究室に訪ねた。「鶴見俊輔」と名札のかかった研究室の扉の向こうに、ほんものの鶴見さんがいると思ったら、心臓が早鐘のように打ったことを覚えている。おそるおそるドアをノックした。二度、三度。返事はなかった。鶴見さんは不在だったのだ。面会するのにあらかじめアポをとってから行くという智恵(ちえ)さえない、18歳だった。

 あまりの失望感に脱力し、それから10年余り。「思想の科学」の京都読者会である「家の会」に20代後半になってから招かれるまで、鶴見さんに直接会うことがなかった。それほど鶴見さんは、わたしにとって巨大な存在だった。

 「思想の科学」はもはやなく、鶴見さんはもうこの世にいない。いまどきの高校生がかわいそうだ。鶴見さんは、このひとが同時代に生きていてくれてよかった、と心から思えるひとのひとりだった。

 鶴見俊輔。リベラルということばはこの人のためにある、と思える。どんな主義主張にも拠(よ)らず、とことん自分のアタマと自分のコトバで考えぬいた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


リベラルということばはこの人のためにある。本当にそうだ。
今の若者には、鶴見さん的な存在がなくて、本当にかわいそうだと私も思う。
上野千鶴子よりは年下だが、私も早熟な高校生だったので、この気持ちは理解できる。

研究室を訪ねる。昔はそういうことが可能だった。
今も可能かもしれないが、大学は以前より閉鎖的になったので、難しいかもしれない。
それに名物の先生は今ではマスコミに出ている中味のないタレント教授ぐらいで、本当の教授は少なくなったので、訪ねる必要を感じない。
一般の人はマスコミに出ている大学教授はどんなに偉いかと思うかもしれないが、マスコミにでるだけで価値がさがるのが大学教授というもの。
マスコミにもてはやされて消耗している教授など、小金はあるだろうが、それだけで、だれも尊敬はしないのである。マスコミに出ないのが本当の教授というものである。

安保関連法の廃案を求めるデモが各地で行われていて、国会前にも人が集まっている。
小田実も死んでしまったし、9条が捻じ曲げられようとしているこの時に、まさに、知の危機的状態にあるこの時に、道を照らしてくれるはずの鶴見俊輔を失ったことは大きい。亡き後、我々はどのようにアベ政権と闘っていけばよいのか。戦前期に逆行する動きをつくる危ない人たちとどう闘うのか。

上野千鶴子では弱すぎるのである。
戦争を体験している鶴見俊輔レベルの思想家はもういないのである。

戦争を知らないがリアルに語れる鶴見俊輔から直伝の世代が頑張らなければならない。

大学改革なんかやって文科省の犬のようになっている場合ではないのである。
もう鶴見俊輔に頼ることはできない。
巨人を失った今、戦後生まれの日本の知識人の実力が真にためされているのである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHK短歌の新体制ー宝塚はやめてほしいのである

2015-07-23 15:57:10 | 日記
4月からNHK短歌、俳句の担当者が変わって雰囲気がだいぶ違う。

違う、と思っている。

短歌はいつから宝塚になったのか?
パンポカパーン、の短歌の最初の音楽でげんなりして、歌心は失せる。
で、もう、短歌なんかやらない、と心に決め、録画はしているが、見る気がなく、たまったまま。

永田和弘や小島ゆかり・・・のほうがよかったと思うのは私が素人だからだろうか?

それにゲストの選び方も今一つである。
とにかく、つまらないのである。
新たな選者、佐々木幸綱、やくざかと思うのだが、祖父の七光りでそこにすわっているのか。

なんとなく、短歌から足が遠のく。
とにかく、宝塚はやめてほしいのである。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いつもそこに東芝の電気製品があった

2015-07-23 14:30:10 | 現代社会論
東芝が不正経理の問題で揺れている。
3人もの代々の社長がやめた。

高度経済成長期、われわれの生活にはいつも東芝があった。
それは、戦後の生活文化に欠くことない風景になっている。
貧しい戦後の生活から豊かさを実感できる生活にかわっていく、そのそばにいつも東芝があった。

母は私のおしめをあらうために電気洗濯機を買ったのである。ローラーからまるでべろのように出てくるシャツやズボン、これで、やっと大変な洗濯から主婦たちは解放されたのだった。
我が家に電気洗濯機が来た日、それが東芝製品購入の最初だったと思う。
以来、我が家は東芝フアンで、いつも東芝の製品を買ってきた。

東芝のテレビ、電気釜、冷蔵庫、カラーテレビ、エアコン、電子レンジ・・・。

冷蔵庫が家に来た日のことを私は今でも覚えている。
それは、東芝の冷凍庫つきのものだった。製氷皿に水をいれておくと氷ができるというもので、ドアに赤いランプがつくものだった。
そのころ近所では冷蔵庫のある家はまだ少なく、友人たちに冷蔵庫が来るからうちに見に来てといって触れ回ったことを思い出す。

あまりにうれしく、氷が早くできないかと夜中に起きて、何度も氷の出来具合を確かめるために台所に行った。

私の人生の節目にいつも東芝があったような気がする。

日本の高度経済成長はものつくりから始まったのである。
東芝は原点に立ち戻り、まじめなものづくりの精神を一からまた積み上げていくべきである。

一時代前までは東大や東工大の工学系の出身者が社長だった。いつのまにか早稲田や慶応の文科系の社長になってしまって、そのころからどうも一途なものつくりを大切にする精神が失われてしまったのではないかと思うのである。儲けも大切、経営も大切だが、やはり、東芝は頑固にものつくりで成果をあげ、世界を代表する企業になったのである。


ものつくり、そこを忘れてはいけないのである。

全国の東芝の工場ではたらく人々、ものつくりの東芝が好きで働いている人も少なくないだろう。

東芝の再生を祈りたい。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHK「ニュースウオッチ9」の新しい体制

2015-07-23 14:16:40 | 日記
この4月からNHK「ニュースウオッチ9」の体制がかわった。
大越井上ラインから河野鈴木佐々木彩という体制。
大越の変なコメントが嫌いだったので、国際派河野さんに変わってよかったと思っている。
井上あさひさんから鈴木アナに変わったが、これはミスキャストだと思う。
鈴木アナのダサい雰囲気はどうしたものか。
ニュースを読むのも下手で、キンキンした声で知性を感じない。
ニュースを読んではいるものの、中身がわかっていないとわかるような読み方で、おいおいと思ってしまうのは私だけだろうか。
朝の情報番組のようなほうが中味がなくても済むのでよかったのだが、夜のゴールデンタイムとなると教養の低さがバレバレで、だんだんむかついてくるのは、私がおばさんだからだろうか。落ち着いてニュースは読んでほしい。わかったような顔をしてほしくないのである。

鈴木アナというのは男性に人気なのだろうが、私のようにあれこれ注文の多いおばさんからするとまるで知性を感じず、ニュースは中身がわからぬまま字ずらを追っているだけで伝わってこないので、受け付けない。
法政出身だそうだが、高校も法政だそうで、無理なんだろう。背伸びしているって感じである。
やはり、NHKの女子アナともなれば、地方出身ならその県のトップクラスの県立高校、東京出身なら国立付属高校か、女子御三家あたりの卒業でなければ教養のレベルで太刀打ちできない。

毎回、ニュースウオッチ9を見るたびにうんざりするのである。
河野さんはオアシス。
大越さんのように野球の話をガード下で焼き鳥食いながらしているおじさんの感覚から脱して、国際派の河野さんでホットしている。

佐々木彩さんもボイッシュな感じで好感がもてる。
鈴木アナよりよっぽどいいのである。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代のお葬式を考える:葬儀費用を削減して募金に

2015-07-22 14:38:08 | 現代社会論
先日、知人のお葬式に参列した。
猛暑だった。

少子化で子どもは少なく、高齢化で故人のみならず、参列者も高齢者。
お座敷ではなく、椅子の葬儀場でなければならない。エスカレーターやエレベータは必置。
駅から歩いて5分でないとこの猛暑のなか、参列者が熱中症になってしまう。
交通の弁もよくなければならない。

それにしても、葬式にはいくらかかるのだろう。
斎場を借りて、祭壇に花をかざり、一連の葬儀を行い、焼き場にいって、荼毘に付して、骨を拾って、骨壺に収める。
戒名など、寺に支払うお布施も相当な額となる。墓がなければ買わなければならない。

”有る程の菊抛(な)げ入れよ棺(かん)の中”漱石

荼毘にふすまえに、お棺のなかに花をいれるのはよい儀式と思う。

しかしだ。僧侶たちというのは、いったいなにをもってお経の価格を決定しているのだろうか。

法話というのがあるが、ちっともありがたくもない話で、その中身のなさにあきれることも多々ある。

で、結果として、みな、このどぶに金を捨てるような儀式は無駄と思い、極力、簡単な葬式にしようということになる。無宗教にしよう、樹木葬にしようという話が出てくるのである。

寺の三代目の僧侶、ボンクラ宗教大学卒、裏庭に外車が3台、などをみると、このお経、お布施もあの外車に化けるのかとおもうとむかつく。

そんなお金があったら子どもの貧困にでも募金しようという気持ちになる。

で、葬式は無宗教で簡略化し、基金を作って、そのお金をみなで、高齢者の貧困対策だとか子どもの貧困対策なんかにあてるようにしたらどうだろう。
寺はつぶれるかもしれないが、まあ、時代の流れだから仕方ない。

バレンタインのお金を募金にという動きがあるが、同じように葬儀を簡略化し費用の一部を募金にしよう。
高齢化社会で、皆長生き、参列者もすくないのだから、派手に葬式などやる必要はないのである。
寺にも高額なお布施や戒名のためのお金を支払うのはもうそこそこでよいと思おう。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする