3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

高齢者の生活支援というけれど

2013-08-31 15:35:13 | 現代社会論
高齢者の生活支援と一口にいうけれど、どれを読んでもピンとこない。

若いソーシャルワーカーや看護師が年取った人の気持ちや生活の実情などを見てどう支援するかを想像しているという感じで、高齢者をみなひとくくりにしていることろがあって、なじめない。
それになんらかの支援が必要でしょう?という押し売り的なものばかりで、そんなんじゃないんだがといつも感じてしまう。

高齢者といった時点ですでにそこには、高齢者とひとくくりにしているところがある。

反対に結構年齢のいった先生が高齢者の支援なんていうのをこうあるべきだなどと話しているのをきくと、あんた、自分のことはどうなの?とつっこみたくなる。
専門職のひとたちというのは、自分のことは棚上げして、効能を述べているように思える。どこか他人事だ。

高齢者の支援ほど面倒なものはないのだと思う。
それぞれ、高齢者というくくりでは生活していないからね。

子どもは学校などで子どもとしての教育を受けているからある程度のくくりはできる。自分で稼げないから生活費は親に依存しているし、それだけでもかなり大きな要素である。
障害のある人々も個別の生活があるから、個々の支援は難しいとは思うが、それでも、障害というものでかなりその人生、生活は限定されるから、ある程度のくくりはなりたつ。

高齢者はどうかというと、物忘れは障害や経済的問題、家族関係のもつれなどいろいろだが、人生いろいろなのでひとくくりにできないところが大変なところ。

我が家の場合、母と父は同じ高齢者だが、価値観も生活様式もまるでちがう。子どもとの関係も違う。
でも、同じ世帯だから、高齢者世帯として統計上は処理される。65歳以上だから、高齢者である。でもなんか違う。

高齢者の生活支援といった瞬間に嘘っぽいということである。
当事者は高齢者などとひとくくりにされたくないのだろう。
専門家はひとくくりにしたほうが楽だろうけれど。

個別性などというが、本当に個別性に基づいてやれるのか、そんな力量は、ケアマネにしてもソーシャルワーカーにしても、ないだろうとおもう。
だれもできない。けどやろうとする、無謀なとりくみが高齢者の生活支援である。



コメント
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