3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

日本女性有業率「M字カーブ」は非正規雇用で解消でいいのか?

2013-07-13 18:34:04 | 女性の地位
総務省が2013.7.12日に発表した2012年の就業構造基本調査によると、25~39歳の女性のうち働く人の割合が69.8%と過去最高を更新した。企業による女性の活用拡大や、家計を支える収入面の事情から子育て世代も離職せずに働き続ける傾向が強まっている、とのこと。
日経は、「日本経済の持続的な成長には女性の活用が重要。女性にとってより働ける環境の整備が必要といえそうだ。」と書いている。

この世代の女性が働いているのはよいことである。女性の社会進出という点からすればよいことだろう。

夫の稼ぎが減ったからか、リストラにあった夫に代わり働くことになったのだろうか。
20代女性は専業主婦志向が高いという調査結果もある。専業主婦になりたいけど、働かなけりゃならないから働いているのかも。

これらの女性たちは非正規雇用なのではないだろうか?
実際同じ就業構造基本調査で、役員を除く雇用者のうち非正規社員は全体で約2043万人、初めて2000万人を突破したとある。比率も38.2%と過去最大を更新した。産業構造がパート比率の高いサービス業に転換していることなどが背景にある。

サービス業にパートで働く女性、そういう女性が増えたので、有業率が上がったとみるべきだろう。

さらに、子どもを産んでいるのかいないのか?それも問題だ。

社会保険つきの安定した雇用なのか、それとも不安定な非専門的な不安定な労働条件か、それが問題だ。

非婚化、既婚でも子供なしか、夫婦で働いてやっとというような生活だと子どもななし、という選択になって少子化が加速する。

女性の有業率が高いのは喜ばしいがその中身が問題である。




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高慢と偏見 (BBC) コリン・ファース 版

2013-07-13 17:35:32 | DVDノート
高慢と偏見 コリン・ファース (出演)について、メモしておきたい。
さすがにBBCの作品なので、とても楽しめるDVDである。
日本語版は高いので、アマゾンUKでイギリス版を買った。英語の字幕をつければよくわかる。英語の勉強になるなあ。

コリンの声はとてもいい声でほれぼれするし、池に飛び込むシーンはワイルドでとてもよろしい。
放映されていたとき、日本でいうところのいわゆる銭湯に人がいない状態になったらしい。国民的小説のテレビとラマ化だから、みな楽しみにしていたのだろう。

コリンが飛び込んだ池には多くのファンが訪れるらしい。
イギリス人にもミーハーはいるのだ。

コリンのダーシーも結構素敵だ。
だんだん感情移入してしまう。
小説に準拠しているので、そこが大変よい。
だんだん、ダーシーとエリザベスの心が近づいていくのが見えるし、微妙な言い回しなどによって、小説をまるでよんでいるような気分になれる。

それにしても、内気で寡黙なダーシー、かわいくって、笑わせてあげたくなるのは私だけか?




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梅津時比古(毎日新聞)新・コンサートを読む:新しいトリスタン

2013-07-13 17:14:38 | 音楽ノート
毎日新聞 2013年07月13日 東京朝刊から
新・コンサートを読む:大阪交響楽団のワーグナー“新しいトリスタン”

梅津時比古というのはどうもかっこつけすぎで芸術的なセンスに欠けるのですきじゃないのだが、ワーグナーについて書いているので紹介しておこう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ◇愛における本質的な性差を刻印
 愛はなぜ夜を呼ぶのだろう。愛し合う互い以外に周りや先を見たくないからだろうか? 周囲から閉ざされることによって深まってゆくことに、愛の特殊性があるのかもしれない。

 ジャック・プレヴェールの美しい恋愛詩は、わずか数行、夜を描くだけだ。<闇の中で三本のマッチをひとつずつ擦る/はじめのはあなたの顔をいちどに見るため/次のはあなたの眼(め)を見るため/最後のはあなたの唇を見るために/そしてあとの暗闇はそれらをすべて想(おも)い出すため/あなたをじっと抱きしめながら>(大岡信訳)。

 ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」も夜に包まれている。こちらは騎士と王女の許されぬ関係を主題に、死に至るまでの激しい愛が濃厚な夜のとばりの中に描かれる。スイスのチューリヒ近郊に滞在していたワーグナーが、支援者の妻であるマティルデ・ヴェーゼンドンクと恋に落ちたことによって、この主題が深まった。そのころマティルデが書いた詩をテキストにして「ヴェーゼンドンク歌曲集」も作曲されている。繊細な感性がきらめく五つの詩は、夢や天使の光り輝く世界を描きながら、苦悩と別れをも内包する。

 「ヴェーゼンドンク歌曲集」と「トリスタンとイゾルデ」の一部を一体化する新しい試みが、児玉宏指揮の大阪交響楽団によって行われた(6月18日、ザ・シンフォニーホール)。

 冒頭は「トリスタンとイゾルデ」の第1幕への前奏曲。暗闇の中から、弦の静かな、あこがれに満ちた響きが聞こえてきて、木管につながる。旋律と沈黙が交互に訪れ、やがて思いが放たれるようにオーケストラが開いてゆく。前奏曲が終わると、ソプラノのエレーヌ・ベルナルディによって「ヴェーゼンドンク歌曲集」から「天使」がオーケストラ伴奏で歌われる。高音から低音までまんべんなく柔らかい響きを持った声が、心静かに落ち着いた旋律を伝える。同時期に作曲しても、歌曲のほうが不安に惑わされない視線を奏でているのは、出会いを「天使が降りてきた」ととらえるマティルデの詩に、確かな愛の充足が感じられるからだろう。続いて“トリスタン”からオーケストラの部分が演奏され、再びベルナルディが入って“歌曲集”の「夢」、また“トリスタン”、“歌曲集”の「悩み」と、交互に組み込まれる。元々関連していたとはいえ、ピッチや音形のつながりが絶妙に調整され、自然に両者が合体してゆく。まるで初めてのオペラ、“新しいトリスタン”を聴いているよう。

そして、“トリスタン”の終幕への前奏曲の冒頭、地の底から響いてくる低弦が、フォルティッシモで演奏された。この孤独な主題は通常そう強くなく入ってくるが、この日の演奏では汚い音すらいとわない最強の勢いが、こらえていたものを一挙に噴出させ、うずまく悲しみをたぎらせる。

 “新しいトリスタン”の魅力は、確実に愛をとらえて存在を見据える歌曲集の詩と、存在の不安にかられて幻影を見るオペラとが、互いを注釈しているところにある。それは、マティルデとワーグナー、あるいは事実としての愛を求める女性と、幻想としての愛にひた走る男性との相違によるのかもしれない。愛における本質的な性差が刻印され、悲しみを呼ぶ。

 「トリスタンとイゾルデ」がなぜ夜に傾斜してゆくかが分かり、そこに照射される昼の光が痛みとして刺さってくる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このコンサート行ってみたかった。「ヴェーゼンドンク歌曲集」と「トリスタンとイゾルデ」が交差するなんて、官能の極み。

歌の仲間(バリトン)がこの「ヴェーゼンドンク歌曲集」を歌っているのだが、その優等生的歌い方が気に入らず、いらいらしながら聞いている。あのねえ。この歌曲はそんなふうに不器用な歌い方ではだめだよと言いたくてたまらないのだが、それは、下手!と言ってしまうようだから、言えない。ドイツ語の発音もよく、それなりにまとまっているのだが、もう一つ心に響かないのはなぜか?

それはこの歌の妖しさがだせないからではないだろうか。

やはりこれはやはり官能的なソプラノがうたわなくちゃね、と思う。男なんかに歌えるもんですか!とも思う。
歌ってやろうじゃないのと思って、歌曲集を入手した。そのうち、歌ってみたいと思ってる。とりあえず「夢」から。

オッターが歌っているyou tubeをみた。なかなかよい。



それにしても、梅津氏は「マティルデとワーグナー、あるいは事実としての愛を求める女性と、幻想としての愛にひた走る男性との相違によるのかもしれない。愛における本質的な性差が刻印され、悲しみを呼ぶ。」とあるが、そうなのだろうか?
女は事実を、男は幻想か?それって愛における本質的な性差?それは違うと思うよ。

むしろ逆か。

男も女も幻想としての愛を求める、だから愛のすれ違いが起きるのではないかと思ったりするのだが。

こんなところで性差を持ち出すのは、野暮だと思うが。梅津というのはどこまでも野暮ったい男だなあ。









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