「知識・観念」が、この身にためにならせていただけた、と言えたところは、「役くに立たなさ」に値遇(であ)えてである。言い換えれば、かつては知識・観念に頼っていたようである。言うまでもなく、その頃のこの心身は不安定に彩られていたに違いないのだが、哀しいかな不安定さにも値遇えずにいた身。知識が無いのは恥ずかしいことであるかのように、知識を求めていた。いつの間にか、かってに思い込んで、疑えずにいた頃があった。役に立たなさに気づかせていただけるために、知識・観念というものが用意されていたのだと今は言えている。よくよく、聞かせていただければ、当然のこととして深くうなずけられるのである。そもそも、人間(ひと)は他者の答えなど求めてはいなかったのである。他者の答えでは歩めないように、いのちはなっていたのだ。このことが自覚になっているか否かだ。疑える・疑問になる、はすごい世界である。真に!。知識・観念は意味がない・役に立たない無駄なものと、読んだ人がいたら丁寧に読めていない証しだ。
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