ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




旧・島津ビル。千代田区内神田1-14。1986(昭和61)年6月22日

本郷通りの神田橋の北で、神田錦町の東京天理教館の向かいである。写真右手のバス停は「内神田1丁目」。
撮影したときには島津製作所のビルだとばかり思っていたが、改めて写真を見るとビルのどこにも島津の文字がない。白い袖看板は「東京西コクヨ」で、玄関脇の表札には東京西コクヨと「西ノ宮株式会社」「○○工材株式会社」。住宅地図で確認すると「神田美土代町ビル」となっていてちょっと怪しいが、明治期には美土代町2丁目になる場所だから、住宅地図の間違いとは言い切れない。
『近代建築ガイドブック[関東編]』(鹿島出版会、昭和57年)では「島津ビル」で載っていて、写真の袖看板も「島津製作所」だから、撮影時の前に島津製作所はビルから出てしまったということらしい。


旧・島津ビル
1987(昭和62)年1月1日

設計:吉武東里(よしたけとうり)、施工:清水組、竣工:昭和12年。
ネット上では「横浜税関(1934年)は国会議事堂(1936年)の設計で有名な吉武東里の設計」という記述が多い。吉武の名前は、ぼくは今回初めて知った。
垂直線が強調された外観なので、ゴシックを意識してモダンにしたデザインかもしれない。

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東京YMCAホテル。千代田区神田美土代町。1986(昭和61)年6月22日

本郷通りに面して神田美土代町にあった。この建物の前を昔は15番の都電(高田馬場駅前―茅場町)が走っていた。
撮影時の地図にはYMCAホテルの背後に「東京YMCA新館」さらに後ろに「YMCA体育館」の建物があったようだ。1988(昭和63)年に解体され、古いビルのイメージを引き継ぐファサードをもった「YMCA会館」が建つ。その後YMCAはそのビルを売却して、現在は「ベルサール神田」という高層ビルに建て変わっている。ぼくは「YMCA会館」を見ていないかもしれない。



東京YMCAホテル。1987(昭和62)年1月1日

設計:曽禰中條建築事務所、施工:大倉土木、竣工:1929(昭和4)年。
スペイン瓦からの連想でスパニッシュ様式かと見ていたが、『建築探偵術入門』(東京建築探偵団著、文春文庫、1986年)には『(ファサードは)スパニッシュ・ミッション、チューダー・ゴシック、ロマネスクを基調とした3層構成のデザイン』とある。





 
 
東京YMCAホテル。左:1986(昭和61)年6月22日、右:同年6月1日

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名花館(ブルーミング中西)。中央区日本橋人形町3-2。1988(昭和63)年1月24日

ブルーミング中西はハンカチーフ卸・販売の最大手である。中西のHPによると、1879(明治17)年に中西儀兵衛商店として創業、昭和7年に株式会社に改組、1985(昭和60)年に現在の社名に変更した。昨年、ハンカチ王子が騒がれたときは、似たようなハンカチの在庫がなくなったそうだ。
本社ビルは名花館の向かいにあり、「大正元年日本橋区地籍地図」の葺屋町に書き込まれている「中西レカチーフ店」の位置に相当するのだろう。
名花館は元は本山商店だった建物である。中西が買い取ったのは昭和30年以降のことではないかと思う。



名花館。1985(昭和60)年1月

店舗の後ろに洋風の住宅と蔵が立つ。撮影時では「名花館」の看板はまだない。



名花館。1986(昭和61)年4月6日

椙森神社の例祭には御神酒所になったりした。写真右に写っている白いビルがブルーミング中西のビル。関東大震災後に建てた2階建て木造の建物は戦時中に強制的に取り壊しにあい、ビルは昭和28年に建てたものだという。


名花館・近影。今年の3月にはビルに建替える工事が始まるらしい。2008(平成20)年1月1日

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丸太柴田商店。人形町3-5。1985(昭和60)年1月

写真のビルの向かいは日本橋堀留町一丁目で、左手へ行くと人形町通りへ出る。江戸明治期には「がくや(楽屋)新道」といった道だという。
「マルシバ」のHPによると、丸太柴田商店は、滋賀県・長浜で彦根藩・御用商人として浜縮緬を扱っていた。創業は江戸享保安永(1700年代)までさかのぼる。大正7年12月に株式会社に改組。以来、白生地の老舗として日本全国の百貨店や小売店を相手に商売を続けてきた。平成12年に、「マルシバ」として再出発した。


1987(昭和62)年9月6日

縦長の窓の間に太い柱を通しているように見えて、やたら頑丈そうなビルだ。スクラッチタイルを貼っているようだ。ビルの右部分も同じ3階建てだが高さがずいぶん違う。切妻屋根のほうは昭和30年頃の火保図では別の商店で、木造である。ファサードは似ているから丸太柴田商店のものになってから改修したものではないかと思う。
看板の文字は「縮緬羽二重白生地卸/丸太柴田商店」。

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左:大洋軒。中央区日本橋人形町3-2。1983(昭和58)年5月
右:グレース。1987(昭和62)年9月6日

芳町通りの北の裏通りで、写真右手に行くと人形町通りに出る。祭りは椙森(すぎのもり)神社の大祭で、太鼓の山車は芳町2丁目町会が出している。
左写真の左の家は後に「大洋軒」という中華料理屋になった。その右へ、鶴巻運送店、グレース(喫茶)、伍徳商店、中田、千歳ビル。


左:一居商店。人形町3-2。1987(昭和62)年5月24日
右:KEN、東京理容師紹介所。人形町3-2。1987(昭和62)年9月6日

1・2枚目の写真の右端のビルの横にある路地。向かい側にも銅板張りとモルタル塗りの看板建築がビルの後ろに並んでいた。

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左:内孫善商店。中央区日本橋人形町3-3。1987(昭和62)年5月24日
右:松本織物。人形町3-3。1987(昭和62)年9月6日

宝来屋の裏の路地。旧町名で芳町2丁目になる。路地の入口の角のビルはすでに空き家のようだが、住宅地図では「内孫善商店」、その奥の銅板張りの家も看板が外されているが「松本織物」。右の写真は同じ建物を逆方向から見たもの。


東京村田
人形町3-3
1986(昭和61)年10月12日

上の写真の路地で、写真右のマッサージ中村の家が宝来屋と背中合わせだ。車も入れない路地に面してこれだけのファサードを構える建物も珍しい。写真左端は久米ビルという。「伊香保湯」という銭湯の跡に建ったようだ。

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宝来屋。中央区日本橋人形町3-3。1986(昭和61)年4月13日

前の通りは通称「芳町通り」で、江戸橋の北側から人形町交差点を通って隅田川に突き当たって北に曲がり、両国橋西詰めで靖国通りと合流する通り。写真右へ行くとじきに人形町交差点。
宝来屋は文政年間に堀江六軒町に創立した煮豆の老舗である。『初代吉兵衛が、煮物の卸売りをはじめ、竹の皮を敷いた曲物に詰めて販売。宝来豆は正月の縁起物。』(「江戸東京学辞典」三省堂、1987年)。
ビルを建替えたのを契機に商売は廃業したらしい。宝来豆が食べられなくなってがっかりしている近隣の人は多いようだ。



宝来屋。1987(昭和62)年3月8日

建物は堀越建築事務所・瀧澤真弓の設計で、昭和4年の建築。瀧澤真弓は「分離派建築会」を結成したメンバーの1人。瀧澤に関しては「分離派建築博物館」というサイトに詳しい。
「煮豆の老舗」と「分離派」とでは結びつきそうもないのだが。

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吉田商店。中央区新富2-3。1987(昭和62)年12月6日

平成通りの新富2郵便局の交差点を新富橋の方へ入ったところ。
看板には「雑貨/家庭日用品」とある。雑貨屋ともいうが昭和25年ごろの火保図に「吉田荒物」とあり、最近はあまり聞かなくなったが荒物屋といったほうが適当のような気がする。建物の横に「新富スタンプの店」の看板が下ろされている。この頃には役目が終わったのだろうか。



酒亭花菱。新富2-2。1987(昭和62)年5月3日

吉田商店の横丁の向かいで、写真右へ行くとすぐ新富橋。写真左の木造家屋は花貞という生花店。花菱と花貞を囲むように平面がL字型のビルがあるが、富士写真製版のビル。


2009.05.26追記
吉田商店
1989(平成1)年11月5日

吉田商店を写した写真がもう1枚あるので、1枚目の写真とほとんど同じ構図なのだが載せておく。吉田商店は現在も旧店舗のすぐ近くのマンションの1階で盛業中だ。昭和23年に創業し、現在のご主人で3代目になるという。

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