ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




宝来屋。中央区日本橋人形町3-3。1986(昭和61)年4月13日

前の通りは通称「芳町通り」で、江戸橋の北側から人形町交差点を通って隅田川に突き当たって北に曲がり、両国橋西詰めで靖国通りと合流する通り。写真右へ行くとじきに人形町交差点。
宝来屋は文政年間に堀江六軒町に創立した煮豆の老舗である。『初代吉兵衛が、煮物の卸売りをはじめ、竹の皮を敷いた曲物に詰めて販売。宝来豆は正月の縁起物。』(「江戸東京学辞典」三省堂、1987年)。
ビルを建替えたのを契機に商売は廃業したらしい。宝来豆が食べられなくなってがっかりしている近隣の人は多いようだ。



宝来屋。1987(昭和62)年3月8日

建物は堀越建築事務所・瀧澤真弓の設計で、昭和4年の建築。瀧澤真弓は「分離派建築会」を結成したメンバーの1人。瀧澤に関しては「分離派建築博物館」というサイトに詳しい。
「煮豆の老舗」と「分離派」とでは結びつきそうもないのだが。

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コメント
 
 
 
人形町界隈 (とおる。)
2008-01-04 23:20:35
人形町界隈は、もうすでに個人でこじんまりとお店をやったり、一軒家に住むことができるような下町ではなくなったんでしょうね。

そういったお店や、住まいがまったくないわけではないですが、古びた二階家であればビルとしてテナントに貸すとか、賃貸マンションにするとかそういった選択肢しかないんでしょうね。
2年前に人形町界隈に住んで最初に幻滅したのが名だたる老舗の上に賃貸マンションがあることでした。。。
 
 
 
本年もどうぞよろしく (きくち@分離派建築博物館)
2008-01-05 10:55:36
やはり、宝来屋は撮っておられましたね。私が気づいた時にはもう建物はありませんでした。数少ない滝澤真弓の足跡を証し立てる貴重な写真だと思います。
もしお許し頂けるならば、貴殿(ryuw-1さんでよろしいでしょうか)の撮影と明記した上で、私のhpでもこの画像を紹介させて頂ければ幸いです。いかがでしょうか。
 
 
 
>とおる。様 (流一)
2008-01-05 19:39:07
以前ならなにか買うといえばそれを売っている商店へいくのが当たり前でしたが、今はスーパーマーケットでなんでも揃ってしまいます。流通システムが変わってしまいましたから、昔ながらの商売を続けるのは難しいのでしょう。ビル化して賃貸料でも稼がないと税金も払えないのかもしれません。
人形町もチェーン店の進出を許すようになったのが、変化の始まりのように思えます。
 
 
 
>きくち様 (流一)
2008-01-05 19:40:59
貴サイトに私の写真を載せてくださるとういう申し出、ありがたくお受けします。適当に加工して使ってください。
ハンドルネームはryuw-1の漢字表記で「流一」を使うことが多いのでそれでお願いします。
どんなページが見られるか楽しみです。
 
 
 
ありがとうございます (きくち@分離派建築博物館)
2008-01-06 13:38:17
流一様、快諾感謝申し上げます。
ハンドルネームの件、了解いたしました。

>どんなページが見られるか楽しみです。
あまり期待されないよう。ただ、こうした貴重な
写真記録は少しでも多くの人の目に触れた方が良
いように思えました。
 
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