高校演劇・夏期講習会(1)演技
この夏も、全国各地で高校演劇連盟の講習会が開かれる。個人的には、夏の季語になってしまった。
何度も繰り返すが、演劇の三要素は「戯曲、役者、観客」の三つである。したがって、この三つに絞り込んで、ネット上の夏期講習会をやりたいと思う。
で、初回は演技について
演技は、水泳に似ていると言ったら驚くだろうか。「ああ、聞いたことがある」という人は勘違い……または、わたしと同じ発想の人である。
水泳の第一歩は、水に浮くことである。仰向けになって、適度に脱力すると、自然に人間は浮くようにできている。アップアップと沈んでしまうのは、下手に緊張して手足をばたつかせる人である。このことは、割に簡単に理解していただけると思う。
逆に、水に浮けない人に泳ぎ方を教えるのは無謀であることが分かる。古来「畳の上の水練」と言って、無駄なことの代表的な言い回しである。講習会では、この浮けない人に泳ぎ方を教えているのに等しいものもある。まずは浮くことから話しを進めたい。
しかし、プロになってウケない芝居をやっていてはいけない……ダジャレは封印する。
☆脱力
何も、将来プロの役者になって、死人の役がくるときの準備ではない。余談だが、数ある子役養成プロダクションでは、本当に死人の役がきた場合にそなえて、やっているところがあるらしい。
人というのは、その場、その状況に合った緊張をしている。四月の新学期、たいていの新入生は遠目からでも新入生であることが知れる。これは、新しい環境に馴染めずに余計な緊張をしているからである。
役者というのは、その場、その人物(時に動物であったりもする。四季の『キャッツ』など、そうであるが、基本的には人間)その状況に合わせた緊張ができなければならない。
いわば、役者の体と心は、役としての人物を入れる器(うつわ)なのである。普通の人でも、器を持っている。だから、遠くから観ても「ああ、大橋のオッサンや」ということになる。
勘のいい人なら、もうお分かりだと思うのだが、役者の体(心はあとで)は、どんな役でも入れられるように柔らかくなくてはならない。また優秀な水泳選手は、泳ぐときに無駄に手足をばたつかせ、余計な水しぶきをあげない。だから、まず脱力を学ぼう。
コンニャクになってみる。人間の体の70%は水分だそうである。いわば人のカタチをした革袋の中に、数え方にもよるが230~360の関節があるそうで、もうほとんど水袋と変わりない。
仰向けに寝て、体の緊張をほぐしていく。ほぐしたつもりでも、なかなかほぐしきれないものである。特に股関節、首の筋肉などは難しい。
ほぐせたと思ったら介添えが両足首を持って、水袋を揺するようにプルンプルンとゆすってみよう。きちんと脱力できていたら、足から頭の方へプルンと揺すりのエネルギーが抜けていくことが分かる。たいてい、やっている者も、やられている者も、そのおかしさに、ウフフ、アハハになる。で、笑ったとたんに体は液体から固体になって、緊張と脱力した状態の違いが分かる。
☆立ち脱力
立ったまま、脱力……したら、倒れてしまう。立っているのに必要な緊張だけを残して立ってみる。イメージとしては、リラックスした立ち方。又は、身の丈ほどの草かコンニャクが立っていると想像する。
で、ここが一番ムツカシイのだが、床が前後にユラっと揺すれたと想像し、その力を足から、腰、腹、胸、首、頭に抜けていくようにやってみる。うまくいくと特大のコンニャクが、プルンと揺すれたように見える。
これで脱力の意味は分かっていただけたかと思う。役を入れる器としての体を柔らかくしておくことである。しかし、脱力の練習は、つまらないので、先に行く。
☆適度な緊張
人は、日常、その状況に相応しいだけの緊張感をもっている。たとえば歩くという行為だけでも、学校へ行く。それも遅刻しそうになっている。大好きな文化祭の朝、最後の仕上げに急ぎ足になる。友だちとケンカした明くる日。卒業式の日の朝。それぞれに違う。
バイトの面接にいく。彼(彼女)とのデートに出かける。みんな、緊張の具合が違う。それに相応しい緊張感で歩いてごらん……わたし達が若い頃にやらされて、戸惑い、落ち込んだエチュードである。だから、みなさんには勧めない。
椅子取りゲームをやってみよう
人数に一つ足りない椅子を用意して、音楽に合わせて、みんなで、その周りを回る。そして音楽が停まった瞬間、一番身近な椅子に座る。当然一つ足りないので、おもしろい椅子の奪い合いになる。ダルマサンガコロンダでもフル-ツバスケットでもいいのだが、この椅子取りゲームが一番ノリやすい。
人数が多ければ、ゲ-ムをする側と見る側に分かれるといい。見ている方も、やっている方も楽しく笑いながらできる。
大事なことは、楽しいことである。そして、なぜ楽しいのかがよく分かること。みんな音楽に合わせながら、椅子に集中し、手早く椅子に腰掛ける人間(回数をこなせば、得意な人間が分かってくる)に意識が集中し、ゲ-ムに相応しいだけの緊張感を正直に、無意識のうちに持っていることである。
こうやって、相応しい緊張感ということを体感する。
自己紹介
日本人は、プレゼンテーションの訓練を学校でやらないし、家庭や地域でも、その機会が少なく、自己紹介はヘタクソで苦手である。演劇部でも新入生が入ってきた学年始めに、たいていやるが、演劇部でもヘタクソである。で、やり方を変える。
もし舞台があったら、舞台の上に、面識のない二人を上げる。
「なにか、二人で芝居を演ってごらん。相談なしに」
二人は、どうしていいか分からなくなるだろう。どちらかがヤケクソにしゃべり出すか、気まずい沈黙が流れるか。そして、なにより戸惑いの緊張感があることに気づくだろう。集中線は、相手1/3と観客席2/3ぐらいになっている。
「二人で、お互いに知らないことを聞いてごらん」と、水を向ける。そして椅子をそれぞれに与える。
最初は、名前や、住所、趣味の話しなどで、かみ合わずぎこちないかもしれないが、そのうちに共通の関心が出てきて、話しに熱中するようになってくる。かみ合わないようなら、「学校、どう思う」「このクラブどう」などと、軽く話題を投げ入れてやってもいい。
二人が、互いに話しに熱中しだすと、集中線が観客席ではなく、相手に向けられていること。不安定な緊張感が無くなり、ときに漫才のようになり、観客席で観ている者も引き込まれ笑い出すことがある。
このことで、舞台では、状況に合わせた(合った)緊張感が必要であり、それが有効なものであるとき、劇的なオモシロサが出てくることが分かる。
☆無対象縄跳び
若い頃、無対象の練習をよくやらされた。「自分の部屋」という、無対象の極地があった。自分の部屋を想像し、その結界だけをバミリ、あとは自分の部屋にいるようにくつろいで、自由にしなさい。というものであった。スタニスラフスキーの時代からの基礎練習で、有効ではあるが、かなりムツカシイし、時間がとられる。発展系に「自分のお風呂」というものもある。無対象で服を脱ぎ、自分が自分の浴室でやっていることを一通りやりなさい。というもので、かなりムツカシイ。
これらの訓練は、単なる無対象だけではなく、自己解放の意味合いもある。自己解放というのは、役者が、物まねではなく、自分の感情を使って、役の心理を表現するのに欠かせないステップなのだが、有効で安全なメソードは、わたしは、まだ開発できていない。
で、代わりに、縄跳びをさせている。最低でも6人ぐらいは必要である。2人が大縄跳びのロープを持ち、他のメンバーは、次々に、その無対象の縄跳びの中に入っていく。全員が入れたら、5回ほど、みんなで跳んで、一人ずつ抜けていく。
不思議なことに、たいていの者が、すぐに出来る。意識を集中しなくても回る縄は、簡単に見ることができ、もし、縄に引っかかった者などがいると、全員が「あ~あ」ということになるからオモシロイ。
この縄跳びには、適当な緊張感とは何か。無対象演技(役者としての想像力)とは何か。そして、チョッピリ自己解放の要素が入っている。
おおよそ、緊張が演技にもたらす影響を理解していただけただろうか。椅子取りゲーム、二人の自己紹介、集団縄跳び。みんな、その状況に相応しい緊張感が簡単に感じることができるメソードである。
もし、芝居の本番中、舞台に猫が現れたら、確実に観客の視線は猫に持って行かれてしまう。
猫は演技しない。舞台の上に興味のあるものがあったら、完全にそれに注目して近づいていく。それが、ネズミのオモチャであったりすると、猫は本能的に狩りの姿勢をとり、そろりそろそりと接近。そこには無駄な緊張など無く、真剣そのもののハンティングする猫の存在になる。
このように、きちんとした緊張と集中こそが、観客の目を舞台に向けさせることができる。
☆反応
舞台で、人を呼び止める場面があったとする。
かなり、訓練された役者でも、ここでダンドリになってしまうことがある。相手の演技や台詞に止めるだけの力がないのに、止まってしまう。ここに演技としての「ウソ」が始まる。この「ウソ」をやられると観客の興味は、急速に冷めていく。
具体的な例で示そう。チェ-ホフの名作に『ワーニャ伯父さん』がある。
劇中第4幕で、ワーニャ伯父さんが、自殺しようとして、医者のアーストロフの鞄からクロロホルムを盗み出す。アーストロフが「返してくれ」と言ってもきかない。そこで、姪のソーニャが、こう迫る。
「伯父さんはいい人ね、あたしたちを、可愛そうだと思って出してちょうだい。我慢してね、伯父さん、我慢してね!」
この姪の嘆願にワーニャ伯父さんは、引き出しから、クロロホルムを出して、ソーニャに渡す……ことになっていた。
しかし、ある日、ロシアで、この『ワーニャ伯父さん』が上演されたとき、ワーニャ伯父さんは、そのタイミングになっても、クロロホルムを渡さない。ソーニャ役の若い女優は困ってしまった。
これ、別に、オッサンの役者が、若い女優をいじめたわけではないのである。ソーニャの嘆願に「ウソ」があったからである。女優は役を超えて「渡して下さい、お願いだから……!」という切ない表情になり、そのときワーニャ伯父さんは、初めて姪の心からの訴えに反応して、クロロホルムを渡した。
舞台で、行われることは、全て台本に書いてあり、結果は、あらかじめ決まっている。で、役者は、必要で過不足のない緊張感をもって演技に臨まなくなってしまう。「ダンドリ芝居」「引き出し芝居」と言われる、高等な、でもジェスチャーに過ぎない。
例を、もう一つ。
『ローマの休日』でオードリー・ヘプバーンが、グレゴリー・ペック演ずる新聞記者といっしょに、ローマの名所を見物するところで、有名な「真実の口」のシーンがある。
オードリーのアン王女が、おそるおそる「真実の口」に手を入れた後「今度は、あなたの番よ」と言う。
この「真実の口」は、ウソつきが手を入れるとかみ切られるという言い伝えがある。台本では、新聞記者のジョーは、ビビリながらてを差し入れるだけで「あなただって、怖がってたじゃない」と、続くはずだった。
グレゴリー・ペックは監督と相談し、オードリーには内緒で、手が引き込まれ噛みちぎられるアドリブをかました。オードリーは必死で、ジョーの手を引き抜こうとし。引き抜いた腕から手首が無くなっていることに卒倒しそうになる。そこでジョ-は「ハロー」と言って、袖の中に隠していた手を出す。
「もう、本当に、噛みちぎられたと思ったじゃない!」アン王女は、ジョーの胸を叩く。
非常に有名なシーンで、ご存じな方も多いと思う。このシーンは、アドリブながら一発でOKが出た。
つまり、オードリーは、そのときのアン王女の心理で反応したのである。
無対象の縄跳びで言ったことと共通するものが、ここにはある。
この話をするとキリがないので、これで一区切りとするが、分かっていただけたであろうか。
とりあえず、泳ぎ方を教える前に、水に浮くこととはどういうことかということをお話した。
☆感情表現
さて、水に浮けるものとして話しを進めよう。
役とは、なんらかの感情・情緒を絶えずしているものである。漢字で「喜・怒・哀・楽」の四文字。技術的アプローチと、メンタルなアプロ-チに分けて話していく。
技術的アプローチ
感情表現は、大きくは拳を振り上げるような大きなものから、ピクっと頬が引きつる中くらいのもの、微かに顔色が変わる小さなものまで、各種ある。いちいち言及していては、2万字というブログの字数制限を超えてしまうので、かいつまんで説明する。
人の筋肉は、意思のままに動く随意筋(例えば、手を上げる。首をかしげる)と不随意筋(心臓や内臓の筋肉)そして、訓練次第で動く半随意筋(耳を動かす、ウィンク=欧米人には随意筋であるが、日本人の大半は半随意筋)がある。
役者の肉体訓練は、体育会系のそれとは違う。丈夫さと柔軟さは、並の人間より少し高めぐらいでいい。随意筋のより高いコントロールと、半随意筋の可動化である。
横隔膜という随意筋がある。胸と腹の境目にある筋肉で、これがなければ呼吸ができない。普段は意識しなくても動いている。思わず横隔膜を動かすのを忘れて死んだ人間はいない。僅かな時間なら停めることもできる。いわゆる「息を止める」ことである。
横隔膜をケイレンさせることを身につけて欲しい。一発だけのケイレンは「しゃっくり」または瞬間的な笑い「ハッ!」である。このケイレンを持続的にできるようになろう。そう、持続的にケイレンさせれば、笑いになる。「ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ」で笑えるように訓練しよう。は、は、は、は、とケイレンさせ、次第にその早さを増していく。早い人は半月ほどで笑えるようになる。泣きも、程度によっては横隔膜がケイレンする。いわゆる泣きじゃくりというやつである。「笑い3年、泣き8年」などと役者の中では言われているが、真剣にやれば、そんなにかからない。
他にも表情筋は鍛えておかなければならない。日本人は一般に笑顔が苦手で、笑ってというと、虫歯の痛みを堪えているような顔になる。鏡を見て、訓練しよう。よく訓練できれば表情筋をケイレンさせることもできる。
メンタルアプロ-チ
台本に「笑う」演出から「笑え」と指示されて笑っていては、観客が共感できる「笑い」にはならない。
舞台における喜怒哀楽は、物理的記憶の再現によってなされる……などと書くと、非常にコムツカシイものになってしまう。思い出していただきたい。椅子取りゲームや無対象集団縄跳びが、なぜおもしろかったのか。
椅子取りゲームにしろ、無対象集団縄跳びにしろ、そこにはインストラクター(演出)の「楽しそうにやって」という指示はない。でも、楽しいのである。
椅子取りゲームでは、椅子なり、椅子を狙っている仲間の顔なり、今にも停められそうな音楽に意識が集中している。
無対象集団縄跳びでは、回転する縄に意識が集中し、あるものは縄に飛び込めた成功のイメージが、あるものには、失敗して縄を引っかけてしまうイメージが、その集中から喚起されてくる。だから、失敗しないようにタイミングを計ろうとし、縄が回転するテンポ、リズムに自分を合わせようとする。で、うまくいったらニマニマとなる。失敗すれば集中線がズッコケて笑いになる。けして笑おうとはしていない。
役者が舞台で集中するのは、次の台詞や、芝居のダンドリではない。役として真実である具体的なモノに集中している。椅子や、縄が、そうであったように。
具体例を。体育の体育の着替え中に、真剣な話しをしている。その最中、一人のスカートがホックのかけ方が悪く、ストンと落ちる。真剣な話しの最中にスカートが落ちるというアクシデントで笑ってしまう。
基本的には、無対象集団縄跳びと同じであるが、数段ムツカシイ。
『ローマの休日』の真実の口のように、相手役に内緒でやってみてもいい。スカートは床まで落ちるかもしれないし、反射神経が良い(設定ならば)落ちかけのスカートを、途中で、押さえられるかも知れない。いずれにしても、真剣な雰囲気はこわされ、笑いにつながる。
このエチュードをやるときは、スカートの下はハーフパンツではいけない。AKB48の子たちのように、ミセパンを穿いていてほしい。ナマパンがいいのだが、高校という枠の中では、そこまでやらなくてもいい。
で、このエチュードをくり返してみる。くり返すと、スカートが落ちることを予感してしまい、しだいに笑えなくなってくる。演劇とは再現性のある芸術で、同じことを何度も再現できなくてはならない。しだいにダンドリになってしまい、演技として新鮮さが失われていく。前述した『ワーニャ伯父さん』のソーニャが、そうである。ソーニャ役の女優は、ワーニャ伯父さんがクロロホルムを渡してくれることが当たり前になり、「渡して下さい、お願いだから……!」の台詞に真実性が失われてしまったのである。だからベテランのワーニャ伯父さんは、いつものようにはクロロホルムを渡さなかった。
もう一つ具体例を。彼を自分の部屋に招いて、二人だけのパーティーをやろうとしている。バースディでもいいし、クリスマスでも、婚約記念、彼の何かの成功でも構わない。いそいそと準備をしていると、玄関でチャイム。「彼が来たんだ!」喜んでドアをあけると、彼との共通の友人が立っている。
「彼、○○のことで来られないって。メールじゃ失礼だから、あたしに知らせてくれって……じゃ、あたし、仕事の途中だから」友人は去っていく。
この後に、いきなり落胆や、怒りの表現をしたら、演出としても、役者としても未熟であるし、芝居はダンドリの説明演技になってしまう。感情が湧いてくる前に、今まで作った料理などのパーティーの準備に意識がいく。「これ、どうしよう」「これって、無駄になった」そう、「これ」に意識が集中される。あとは、役者が設定(意識的にも、無意識的にもやっている)した役の個性で行動する。ゆっくりと片づけ、その途中で涙がこぼれるかもしれない。カッとなって、パーティーの用意をひっくり返すかも知れない。
大事なことは、いきなり感情に飛びつかないことである。集中するものは、基本的に、具体的なものかも、無対象かもしれないが、舞台の上にしかない。
感情というのは、物理的な観察や、記憶の想起から湧いてくるものである。高校生の芝居のほとんどは、これができていない。
水泳に例えて、浮くことが大切と言ってきた。そして泳ぐことに関しては、バタ足程度のことを示してきた。
この夏も、全国各地で高校演劇連盟の講習会が開かれる。個人的には、夏の季語になってしまった。
何度も繰り返すが、演劇の三要素は「戯曲、役者、観客」の三つである。したがって、この三つに絞り込んで、ネット上の夏期講習会をやりたいと思う。
で、初回は演技について
演技は、水泳に似ていると言ったら驚くだろうか。「ああ、聞いたことがある」という人は勘違い……または、わたしと同じ発想の人である。
水泳の第一歩は、水に浮くことである。仰向けになって、適度に脱力すると、自然に人間は浮くようにできている。アップアップと沈んでしまうのは、下手に緊張して手足をばたつかせる人である。このことは、割に簡単に理解していただけると思う。
逆に、水に浮けない人に泳ぎ方を教えるのは無謀であることが分かる。古来「畳の上の水練」と言って、無駄なことの代表的な言い回しである。講習会では、この浮けない人に泳ぎ方を教えているのに等しいものもある。まずは浮くことから話しを進めたい。
しかし、プロになってウケない芝居をやっていてはいけない……ダジャレは封印する。
☆脱力
何も、将来プロの役者になって、死人の役がくるときの準備ではない。余談だが、数ある子役養成プロダクションでは、本当に死人の役がきた場合にそなえて、やっているところがあるらしい。
人というのは、その場、その状況に合った緊張をしている。四月の新学期、たいていの新入生は遠目からでも新入生であることが知れる。これは、新しい環境に馴染めずに余計な緊張をしているからである。
役者というのは、その場、その人物(時に動物であったりもする。四季の『キャッツ』など、そうであるが、基本的には人間)その状況に合わせた緊張ができなければならない。
いわば、役者の体と心は、役としての人物を入れる器(うつわ)なのである。普通の人でも、器を持っている。だから、遠くから観ても「ああ、大橋のオッサンや」ということになる。
勘のいい人なら、もうお分かりだと思うのだが、役者の体(心はあとで)は、どんな役でも入れられるように柔らかくなくてはならない。また優秀な水泳選手は、泳ぐときに無駄に手足をばたつかせ、余計な水しぶきをあげない。だから、まず脱力を学ぼう。
コンニャクになってみる。人間の体の70%は水分だそうである。いわば人のカタチをした革袋の中に、数え方にもよるが230~360の関節があるそうで、もうほとんど水袋と変わりない。
仰向けに寝て、体の緊張をほぐしていく。ほぐしたつもりでも、なかなかほぐしきれないものである。特に股関節、首の筋肉などは難しい。
ほぐせたと思ったら介添えが両足首を持って、水袋を揺するようにプルンプルンとゆすってみよう。きちんと脱力できていたら、足から頭の方へプルンと揺すりのエネルギーが抜けていくことが分かる。たいてい、やっている者も、やられている者も、そのおかしさに、ウフフ、アハハになる。で、笑ったとたんに体は液体から固体になって、緊張と脱力した状態の違いが分かる。
☆立ち脱力
立ったまま、脱力……したら、倒れてしまう。立っているのに必要な緊張だけを残して立ってみる。イメージとしては、リラックスした立ち方。又は、身の丈ほどの草かコンニャクが立っていると想像する。
で、ここが一番ムツカシイのだが、床が前後にユラっと揺すれたと想像し、その力を足から、腰、腹、胸、首、頭に抜けていくようにやってみる。うまくいくと特大のコンニャクが、プルンと揺すれたように見える。
これで脱力の意味は分かっていただけたかと思う。役を入れる器としての体を柔らかくしておくことである。しかし、脱力の練習は、つまらないので、先に行く。
☆適度な緊張
人は、日常、その状況に相応しいだけの緊張感をもっている。たとえば歩くという行為だけでも、学校へ行く。それも遅刻しそうになっている。大好きな文化祭の朝、最後の仕上げに急ぎ足になる。友だちとケンカした明くる日。卒業式の日の朝。それぞれに違う。
バイトの面接にいく。彼(彼女)とのデートに出かける。みんな、緊張の具合が違う。それに相応しい緊張感で歩いてごらん……わたし達が若い頃にやらされて、戸惑い、落ち込んだエチュードである。だから、みなさんには勧めない。
椅子取りゲームをやってみよう
人数に一つ足りない椅子を用意して、音楽に合わせて、みんなで、その周りを回る。そして音楽が停まった瞬間、一番身近な椅子に座る。当然一つ足りないので、おもしろい椅子の奪い合いになる。ダルマサンガコロンダでもフル-ツバスケットでもいいのだが、この椅子取りゲームが一番ノリやすい。
人数が多ければ、ゲ-ムをする側と見る側に分かれるといい。見ている方も、やっている方も楽しく笑いながらできる。
大事なことは、楽しいことである。そして、なぜ楽しいのかがよく分かること。みんな音楽に合わせながら、椅子に集中し、手早く椅子に腰掛ける人間(回数をこなせば、得意な人間が分かってくる)に意識が集中し、ゲ-ムに相応しいだけの緊張感を正直に、無意識のうちに持っていることである。
こうやって、相応しい緊張感ということを体感する。
自己紹介
日本人は、プレゼンテーションの訓練を学校でやらないし、家庭や地域でも、その機会が少なく、自己紹介はヘタクソで苦手である。演劇部でも新入生が入ってきた学年始めに、たいていやるが、演劇部でもヘタクソである。で、やり方を変える。
もし舞台があったら、舞台の上に、面識のない二人を上げる。
「なにか、二人で芝居を演ってごらん。相談なしに」
二人は、どうしていいか分からなくなるだろう。どちらかがヤケクソにしゃべり出すか、気まずい沈黙が流れるか。そして、なにより戸惑いの緊張感があることに気づくだろう。集中線は、相手1/3と観客席2/3ぐらいになっている。
「二人で、お互いに知らないことを聞いてごらん」と、水を向ける。そして椅子をそれぞれに与える。
最初は、名前や、住所、趣味の話しなどで、かみ合わずぎこちないかもしれないが、そのうちに共通の関心が出てきて、話しに熱中するようになってくる。かみ合わないようなら、「学校、どう思う」「このクラブどう」などと、軽く話題を投げ入れてやってもいい。
二人が、互いに話しに熱中しだすと、集中線が観客席ではなく、相手に向けられていること。不安定な緊張感が無くなり、ときに漫才のようになり、観客席で観ている者も引き込まれ笑い出すことがある。
このことで、舞台では、状況に合わせた(合った)緊張感が必要であり、それが有効なものであるとき、劇的なオモシロサが出てくることが分かる。
☆無対象縄跳び
若い頃、無対象の練習をよくやらされた。「自分の部屋」という、無対象の極地があった。自分の部屋を想像し、その結界だけをバミリ、あとは自分の部屋にいるようにくつろいで、自由にしなさい。というものであった。スタニスラフスキーの時代からの基礎練習で、有効ではあるが、かなりムツカシイし、時間がとられる。発展系に「自分のお風呂」というものもある。無対象で服を脱ぎ、自分が自分の浴室でやっていることを一通りやりなさい。というもので、かなりムツカシイ。
これらの訓練は、単なる無対象だけではなく、自己解放の意味合いもある。自己解放というのは、役者が、物まねではなく、自分の感情を使って、役の心理を表現するのに欠かせないステップなのだが、有効で安全なメソードは、わたしは、まだ開発できていない。
で、代わりに、縄跳びをさせている。最低でも6人ぐらいは必要である。2人が大縄跳びのロープを持ち、他のメンバーは、次々に、その無対象の縄跳びの中に入っていく。全員が入れたら、5回ほど、みんなで跳んで、一人ずつ抜けていく。
不思議なことに、たいていの者が、すぐに出来る。意識を集中しなくても回る縄は、簡単に見ることができ、もし、縄に引っかかった者などがいると、全員が「あ~あ」ということになるからオモシロイ。
この縄跳びには、適当な緊張感とは何か。無対象演技(役者としての想像力)とは何か。そして、チョッピリ自己解放の要素が入っている。
おおよそ、緊張が演技にもたらす影響を理解していただけただろうか。椅子取りゲーム、二人の自己紹介、集団縄跳び。みんな、その状況に相応しい緊張感が簡単に感じることができるメソードである。
もし、芝居の本番中、舞台に猫が現れたら、確実に観客の視線は猫に持って行かれてしまう。
猫は演技しない。舞台の上に興味のあるものがあったら、完全にそれに注目して近づいていく。それが、ネズミのオモチャであったりすると、猫は本能的に狩りの姿勢をとり、そろりそろそりと接近。そこには無駄な緊張など無く、真剣そのもののハンティングする猫の存在になる。
このように、きちんとした緊張と集中こそが、観客の目を舞台に向けさせることができる。
☆反応
舞台で、人を呼び止める場面があったとする。
かなり、訓練された役者でも、ここでダンドリになってしまうことがある。相手の演技や台詞に止めるだけの力がないのに、止まってしまう。ここに演技としての「ウソ」が始まる。この「ウソ」をやられると観客の興味は、急速に冷めていく。
具体的な例で示そう。チェ-ホフの名作に『ワーニャ伯父さん』がある。
劇中第4幕で、ワーニャ伯父さんが、自殺しようとして、医者のアーストロフの鞄からクロロホルムを盗み出す。アーストロフが「返してくれ」と言ってもきかない。そこで、姪のソーニャが、こう迫る。
「伯父さんはいい人ね、あたしたちを、可愛そうだと思って出してちょうだい。我慢してね、伯父さん、我慢してね!」
この姪の嘆願にワーニャ伯父さんは、引き出しから、クロロホルムを出して、ソーニャに渡す……ことになっていた。
しかし、ある日、ロシアで、この『ワーニャ伯父さん』が上演されたとき、ワーニャ伯父さんは、そのタイミングになっても、クロロホルムを渡さない。ソーニャ役の若い女優は困ってしまった。
これ、別に、オッサンの役者が、若い女優をいじめたわけではないのである。ソーニャの嘆願に「ウソ」があったからである。女優は役を超えて「渡して下さい、お願いだから……!」という切ない表情になり、そのときワーニャ伯父さんは、初めて姪の心からの訴えに反応して、クロロホルムを渡した。
舞台で、行われることは、全て台本に書いてあり、結果は、あらかじめ決まっている。で、役者は、必要で過不足のない緊張感をもって演技に臨まなくなってしまう。「ダンドリ芝居」「引き出し芝居」と言われる、高等な、でもジェスチャーに過ぎない。
例を、もう一つ。
『ローマの休日』でオードリー・ヘプバーンが、グレゴリー・ペック演ずる新聞記者といっしょに、ローマの名所を見物するところで、有名な「真実の口」のシーンがある。
オードリーのアン王女が、おそるおそる「真実の口」に手を入れた後「今度は、あなたの番よ」と言う。
この「真実の口」は、ウソつきが手を入れるとかみ切られるという言い伝えがある。台本では、新聞記者のジョーは、ビビリながらてを差し入れるだけで「あなただって、怖がってたじゃない」と、続くはずだった。
グレゴリー・ペックは監督と相談し、オードリーには内緒で、手が引き込まれ噛みちぎられるアドリブをかました。オードリーは必死で、ジョーの手を引き抜こうとし。引き抜いた腕から手首が無くなっていることに卒倒しそうになる。そこでジョ-は「ハロー」と言って、袖の中に隠していた手を出す。
「もう、本当に、噛みちぎられたと思ったじゃない!」アン王女は、ジョーの胸を叩く。
非常に有名なシーンで、ご存じな方も多いと思う。このシーンは、アドリブながら一発でOKが出た。
つまり、オードリーは、そのときのアン王女の心理で反応したのである。
無対象の縄跳びで言ったことと共通するものが、ここにはある。
この話をするとキリがないので、これで一区切りとするが、分かっていただけたであろうか。
とりあえず、泳ぎ方を教える前に、水に浮くこととはどういうことかということをお話した。
☆感情表現
さて、水に浮けるものとして話しを進めよう。
役とは、なんらかの感情・情緒を絶えずしているものである。漢字で「喜・怒・哀・楽」の四文字。技術的アプローチと、メンタルなアプロ-チに分けて話していく。
技術的アプローチ
感情表現は、大きくは拳を振り上げるような大きなものから、ピクっと頬が引きつる中くらいのもの、微かに顔色が変わる小さなものまで、各種ある。いちいち言及していては、2万字というブログの字数制限を超えてしまうので、かいつまんで説明する。
人の筋肉は、意思のままに動く随意筋(例えば、手を上げる。首をかしげる)と不随意筋(心臓や内臓の筋肉)そして、訓練次第で動く半随意筋(耳を動かす、ウィンク=欧米人には随意筋であるが、日本人の大半は半随意筋)がある。
役者の肉体訓練は、体育会系のそれとは違う。丈夫さと柔軟さは、並の人間より少し高めぐらいでいい。随意筋のより高いコントロールと、半随意筋の可動化である。
横隔膜という随意筋がある。胸と腹の境目にある筋肉で、これがなければ呼吸ができない。普段は意識しなくても動いている。思わず横隔膜を動かすのを忘れて死んだ人間はいない。僅かな時間なら停めることもできる。いわゆる「息を止める」ことである。
横隔膜をケイレンさせることを身につけて欲しい。一発だけのケイレンは「しゃっくり」または瞬間的な笑い「ハッ!」である。このケイレンを持続的にできるようになろう。そう、持続的にケイレンさせれば、笑いになる。「ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ」で笑えるように訓練しよう。は、は、は、は、とケイレンさせ、次第にその早さを増していく。早い人は半月ほどで笑えるようになる。泣きも、程度によっては横隔膜がケイレンする。いわゆる泣きじゃくりというやつである。「笑い3年、泣き8年」などと役者の中では言われているが、真剣にやれば、そんなにかからない。
他にも表情筋は鍛えておかなければならない。日本人は一般に笑顔が苦手で、笑ってというと、虫歯の痛みを堪えているような顔になる。鏡を見て、訓練しよう。よく訓練できれば表情筋をケイレンさせることもできる。
メンタルアプロ-チ
台本に「笑う」演出から「笑え」と指示されて笑っていては、観客が共感できる「笑い」にはならない。
舞台における喜怒哀楽は、物理的記憶の再現によってなされる……などと書くと、非常にコムツカシイものになってしまう。思い出していただきたい。椅子取りゲームや無対象集団縄跳びが、なぜおもしろかったのか。
椅子取りゲームにしろ、無対象集団縄跳びにしろ、そこにはインストラクター(演出)の「楽しそうにやって」という指示はない。でも、楽しいのである。
椅子取りゲームでは、椅子なり、椅子を狙っている仲間の顔なり、今にも停められそうな音楽に意識が集中している。
無対象集団縄跳びでは、回転する縄に意識が集中し、あるものは縄に飛び込めた成功のイメージが、あるものには、失敗して縄を引っかけてしまうイメージが、その集中から喚起されてくる。だから、失敗しないようにタイミングを計ろうとし、縄が回転するテンポ、リズムに自分を合わせようとする。で、うまくいったらニマニマとなる。失敗すれば集中線がズッコケて笑いになる。けして笑おうとはしていない。
役者が舞台で集中するのは、次の台詞や、芝居のダンドリではない。役として真実である具体的なモノに集中している。椅子や、縄が、そうであったように。
具体例を。体育の体育の着替え中に、真剣な話しをしている。その最中、一人のスカートがホックのかけ方が悪く、ストンと落ちる。真剣な話しの最中にスカートが落ちるというアクシデントで笑ってしまう。
基本的には、無対象集団縄跳びと同じであるが、数段ムツカシイ。
『ローマの休日』の真実の口のように、相手役に内緒でやってみてもいい。スカートは床まで落ちるかもしれないし、反射神経が良い(設定ならば)落ちかけのスカートを、途中で、押さえられるかも知れない。いずれにしても、真剣な雰囲気はこわされ、笑いにつながる。
このエチュードをやるときは、スカートの下はハーフパンツではいけない。AKB48の子たちのように、ミセパンを穿いていてほしい。ナマパンがいいのだが、高校という枠の中では、そこまでやらなくてもいい。
で、このエチュードをくり返してみる。くり返すと、スカートが落ちることを予感してしまい、しだいに笑えなくなってくる。演劇とは再現性のある芸術で、同じことを何度も再現できなくてはならない。しだいにダンドリになってしまい、演技として新鮮さが失われていく。前述した『ワーニャ伯父さん』のソーニャが、そうである。ソーニャ役の女優は、ワーニャ伯父さんがクロロホルムを渡してくれることが当たり前になり、「渡して下さい、お願いだから……!」の台詞に真実性が失われてしまったのである。だからベテランのワーニャ伯父さんは、いつものようにはクロロホルムを渡さなかった。
もう一つ具体例を。彼を自分の部屋に招いて、二人だけのパーティーをやろうとしている。バースディでもいいし、クリスマスでも、婚約記念、彼の何かの成功でも構わない。いそいそと準備をしていると、玄関でチャイム。「彼が来たんだ!」喜んでドアをあけると、彼との共通の友人が立っている。
「彼、○○のことで来られないって。メールじゃ失礼だから、あたしに知らせてくれって……じゃ、あたし、仕事の途中だから」友人は去っていく。
この後に、いきなり落胆や、怒りの表現をしたら、演出としても、役者としても未熟であるし、芝居はダンドリの説明演技になってしまう。感情が湧いてくる前に、今まで作った料理などのパーティーの準備に意識がいく。「これ、どうしよう」「これって、無駄になった」そう、「これ」に意識が集中される。あとは、役者が設定(意識的にも、無意識的にもやっている)した役の個性で行動する。ゆっくりと片づけ、その途中で涙がこぼれるかもしれない。カッとなって、パーティーの用意をひっくり返すかも知れない。
大事なことは、いきなり感情に飛びつかないことである。集中するものは、基本的に、具体的なものかも、無対象かもしれないが、舞台の上にしかない。
感情というのは、物理的な観察や、記憶の想起から湧いてくるものである。高校生の芝居のほとんどは、これができていない。
水泳に例えて、浮くことが大切と言ってきた。そして泳ぐことに関しては、バタ足程度のことを示してきた。