大橋むつおのブログ

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高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・80『キャリー』

2016-11-01 06:13:13 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評・80
『キャリー』


この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ


これは、悪友の映画評論家・滝川浩一が個人的に身内にながしているものですが、もったいないので転載したものです。


スティーブン・キングの処女作のリメイクです。

 前作はブライアン・デ・パルマ監督 シシー・スペイセク主演でした。物語の底には、キャリーが母によって押し込まれる階段下の小部屋=祈祷室=安全な場所(母にとって)=子宮。豚と血とカーニバルのシンボライズが流れているが、これは止めておきます。ちょっと嫌悪感剥き出しの解説になってしまいますから。

 S・キング原作の映画化作品は既に40本を越えています、その中で 今 何故キャリーなのか?
 製作者サイドはキャリーに込められたテーマの普遍性を語っており、前作から37年後 現在のキャリーを作りたかったと述べています。結果、ハッキリ言って焦点のぼやけた映画になっていました。

 シシー・スペイセクのキャリーはブス(女性方 ごめんなさい)で引っ込み思案の典型的な苛められっ子。その周囲に有るのは陰湿な悪意のみ。逃げ込むべき我が家は狂的宗教原理主義者の母が支配している。
 キャリーには自分の殻を打ち破る意志も力も無い。そのギリギリまで押し込められた状況の中、プロムナイトで受けた仕打ちによって 彼女は異形の怪物へと生まれ変わる、その破壊は相手かまわず、無慈悲に襲いかかる。

 対して本作は、S.N.S.でイジメが横行する現在の話である、クロエ・グレース・モレッツのキャリーは母の支配から抜けようと反抗する今の時代のハイティーンである。
 どうやら、この設定からボタンが掛け違っている。クロエが悪い訳ではない。彼女は実に見事に脚本と演出の要求を満たしている。未だ16歳だなどと信じがたい演技力です。母を演じたジュリアン・ムーアも演技派の実力を遺憾なく発揮している。
 となると、製作者の表現方法に誤りが有ったと言うことになります。前作に有った、アメリカのスモールタウンのいやらしさ・閉鎖性。渦を巻くような悪意。血まみれの残虐と転倒したカタルシス……これらが後退しています。前作が、アメリカンゴシック(18世紀末)の流れを引くスプラッタホラーであったなら、本作は思春期ホラーとでも言えそうです。 幾分おどおどしながらも普通の高校生であろうと努力するキャリーには、ちゃんと見ていて評価・理解する視線が周りに有る。
 だから、惨劇の場においても自分にとっての敵・味方を識別する。制御不能の怪物ではない。 青春の悲劇ストーリーにしたいがために、肝心のキャリーの悲しみ・怒りの深淵を埋めてしまっている。 この物語の最重要シーンはプロムナイトに有るのではなく、家に戻ったキャリーと母の対峙にあります。その前段でキャリーが異形の怪物に成りきっていなければ、ラストの悲しみが観客の胸に届きません。監督は「ボーイズ・ドント・クライ」のキンバリー・ピアース、女性監督ならではの目線を至るところに感じますが、ホラーの作法より 自らのこだわりを優先しすぎたのだと思われます。このテーマで撮るならキャリーのリメイクではなく、オリジナルにするべきでしたね。


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