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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

カラヴァッジョの絵画にほとばしる生と死

2019-11-03 17:58:13 | アート

 

 名古屋市美術館で開催中のカラヴァッジョ展を観に行った。
 平日とあってか、予想したほどの人出はなく、ゆっくり観ることが出来た。

 この種の著名な画家の展示は、本人自身の作品は少なく、その周辺や影響関係の作品を掻き集めてなんとか数を合わせるというのが一般的だが、この展示もそうであった。しかし、カラヴァッジョ本人のものも一〇枚近くあり、その意味ではまあまあだった。

          
 数年前のフェルメール展(豊田市美術館)は、わずか一枚だった。今春の大阪市美術館のフェルメール展では数枚が展示されていたが。
 まあしかし、考えてみればフェルメールは世界中で現存が確認されているのは三十数点だというからやむを得ないだろう。

 カラヴァッジョはどうかというと、六〇点から一〇〇点というからかなり大雑把な把握という他はない。おそらく個人蔵が多くて掌握しきれなかったり、真贋がはっきりしないものがあるのだろう。
 またこの時代、工房での作品が分業的に制作されたということもあって、誰のものと特定しにくいものもあるのだろう。カラヴァッジョ自身、若い頃は親方連中の作品の、花や果物など、静物のパートしか描かせてもらえなかったらしい。

 カラヴァッジョの作品で、明らかに彼のもので、写真のみ残っていて失われてしまったものが三点ある。それは、ドイツのベルリンにあったのだが、第二次世界大戦でのベルリン空爆の際に焼失したのだという。戦争はいろいろなものを焼き尽くし、破壊する。

          
 さて、カラヴァッジョ展であるが、展示の構成とその説明が詳しく適切でわかりやすかった。その作品を観ながら、彼の数奇な生涯がわかるようになっている。
 彼は優れた感性をもった画家であると同時に、激情の持主だった。それによるトラブルが生涯ついて回り、乱闘の末、相手を殺害して逃亡生活を余儀なくされ、なんとか公の場に復帰しようとする矢先、三九歳でその生涯を閉じている。

 彼の作品もその激情を反映したかのように、どれもドラマチックである。その宗教画も、聖なるものというより、どこかおどろおどろしいもの、率直にいって死そのものを表現しているものが多い。それらは、聖書などにおける死を伴う場面であるが、それはどこかに法悦をも思わせる。
 
 その技法としては、黒いバックに主題が浮き出てきて、そこにまたハイライトがあるという描き方で、まさにスポットライトによる劇的効果満点の感がある。
 その明暗の表示の仕方は、光の画家と言われたフェルメールや、明暗を効果的に使ったレンブラントとも違って、くっきりとダイナミックである。

          
            これは今夏、私がエルミタージュで撮してきたもの
 
 私の興味を惹いたのは、割合、若い頃の作品で「リュートを弾く若者」であった。
 実はこの絵、彼自身の筆になる基本的に同様の構図のものが三点残っていて、そのうちの一点がきているわけだが、私はこれで、そのうちの二点を観たことになる。

 というのは、今夏、サンクトペテルブルクへ行った際、エルミタージュでもう一点を観ているからだ。今回展示されているものはイタリアからもってきたものだが、エルミタージュのものに酷似している。他の図鑑で確認したのだが、あえていうと、花瓶のハイライトの付け方がやや違うのと、これは私の主観だが、全体の透明感、それに若者の物憂げな表情がエルミタージュのほうが強かったような気がする。

          
 もう一点(上の写真)は、ニューヨークのメトロポリタンにあるもので、これも基本的には似ているものの、花瓶や静物などの周辺の装飾がなく全体に地味なのと、最も違う点は、手前に木管楽器が置かれているということだ。
 それに、若者の顔色や表情があまりスッキリしていなくて、この点では今回来たものやエルミタージュのもののほうが勝ってると思う。

              
 いずれにしても、面白い展示ではあった。
 なお、同展の看板やポスター、チラシのキャッチフレーズは、「才能か。罪か。」となっているが、その絵には明らかにエロスとタナトスの両面に向けたパッションが横溢していることから、私に言わせれば、「才能」と「罪」は or で結ばれるのではなく and や together 、あるいは both で結ばれるべきだろうと思った。

 

 

 

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「文化の日」と「明治節」

2019-11-03 11:48:58 | 歴史を考える

 今日、文化の日は、戦前は明治天皇の誕生日にちなんだ「明治節」という休日だった。 
 それをなぞり、11月3日を「文化の日」から「明治の日」とするよう促す日本会議をはじめとする署名運動がかなりの数を集めているという。
 その背景には、メディアによって醸成された「週刊誌天皇制」による皇室への賛美(安倍よりましという自称リベラルのそれも含めて)もあるのかもしれない。
 
 しかし、ここには祝日に関する発想そのもののとんでもない逆コースがが潜んでいることに気をつけなければならない。

          
 戦後、祝日は「国民の祝日」とされ、その主体は国民によるものとされた。何故わざわざそんなことが規定されたのかというと、戦前の祝日は国民のものではなく、天皇家のものだったからである。
 
 それらは、神武天皇の即位した日(2月11日)=紀元節、昭和天皇の誕生日=天長節(4月29日)、明治天皇の誕生日=明治節(11月3日)、宮中行事としての新嘗祭(11月23日)などなどであった。
 
 ようするに「国民の」ではなく「天皇家の」祝日だから臣民も休めという上意下達の休日だった。
 したがって、冒頭に書いた「明治の日」への改変運動は、単に休日の一日の名称を変えるというにとどまらず、休日そのもののコンセプトをも変えかねないトンデモ逆コースの試みというべきなのだ。

               
 もしこの試みが実現し、「文化の日」がなくなるとしたら、もともと科学技術以外の文化を軽んじるこの国の文化政策はさらに減退し、多面的なその文化の豊かさは大きく損なわれるであろう。

 そして、ある特定の価値観による国民の統合が進み、大多数のもの言わぬ民と、少数のものを言うけれど、その都度、抑圧され、抹殺される民とに分離され、やがて人々が多様でありうる世界が失われるであろう。
 それが戦前の日本であり、無謀な戦争に突入する時点では、それに警鐘を鳴らし、それを阻止する言説の余地はすでに失われてしまっていた。

 

なお、「昭和」と「明治」が強調されるなか、「大正」にはまったく触れないところに、これら論者のきわめて恣意的なものが感じられる。大正天皇の内実には謎が多いが、明治と昭和の時代は日本が武力をもって拡張政策を強行した時代だった。

 

 

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