六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「こころの旅」と青春像とストーカー、そして落日

2013-12-23 18:09:00 | よしなしごと
 冬の午後は短い。昼食を終えて一休みし、さてっと腰を上げ自分のデスクに陣取ったものの、さしたることもしないうちにもう辺りが薄暗くなってくる。今頃がいちばん日が短いのだからしょうがないといえばそれまでだが。

 随分前だが、Book Offで神谷美恵子著作集・3『こころの旅』(みすず書房)が100円コーナーにあるのを見つけて買ってきた。
 人間の一生を、その誕生から死に至るまでの10章に分けて、主にその心理的な分野を記述したものだが、バリバリの専門書でもなく、かといって思いつきの随想でもなく、ちゃんとフロイトやエリクソン、それにピアジェを参照しながら裏をとった叙述になっている。

           

 しかし、わりと手軽に読めそうなので、うちで読み続けているものとは別に、病院の待ち時間とか、名古屋へ出かける際の車中だとか、あるいは人と待ち合わせる場合の時間つぶしで読むことにしていたのだが、このほどそれを読み終えた。名古屋へ出かける機会はうんと減ったが、代わりに病院の待合室が多くなったので、そこで読んだ部分が多いかもしれない。

 第8章が「人生の秋」で、第9章が「病について」、そして第10章が「旅の終わり」だから、私のようなものが病院の待合室で読むにはまさに適合しているというべきだろう。
 内容については、なるほど、それはそういうことだったのかと専門的な展開の箇所で納得したり、う~ん、このへんの叙述はちょっと平板ではないかなぁなどと思ったりしながら、退屈せずに読み終えた。

 実は私、この神谷美恵子さんについてはあまり知るところはない。1960年代の終わりに、『生きがいについて』というベストセラーを生み出し、その後の「生きがいブーム」に火を付けたことは知っていたが、ベストセラーと聞くとつい腰が引けてしまうという生来のひねくれ者ときて、ついに手にすることはなかった。
 ただ、その折に、戦中戦後の切迫した時代には「生きがい」などに思いをはせることなどなく、人びとはともあれ生きることに必死だったのに、こうしたものが要求されるということはある種の豊かさのもたらすところかなぁと思ったことは記憶している。
 ときあたかも、もはや戦後ではないとの掛け声のもと、高度成長期のまっただ中であった。

              

 そんなわけで、神谷さんを検索してみようとまず Wikiで概略を読み、そこから辿って行ったら「神谷恵美子の青春」と題した古机というハンドル・ネームの人のHPに行き当たり、それを読み出したらけっこう面白いのだがなかなか終わらない。あとで調べたら長いはずで、33,500文字にも及ぶ労作だった。
 開いたページの右側のスクロールバーの中の青い帯が丸いポッチになっていて、これが小さいのは文章が長い証拠なのだが、うかつにもそれに気づいたのは読みだしてしばらくしてからで、その時にはもう引き返せないところまで読み進んでいた。

 で、それだけならいいのだが、この古机氏、得体のしれないネウヨのような人(古机氏は女性だといっているが)にしつっこく絡まれていて、天皇を侮辱したとか、自民党批判をしているがその恩恵をこうむっているだろうとか、お高く止まっていて庶民を馬鹿にしているとか、どこで調べたか実名まで挙げて非難されているようなのだ。
 相手にしてやると揚げ足を取るし、相手にしないと逆ギレしてさらに攻撃を強化するしで、さらにはそのための専用の掲示板まで設置してあることないことを言い募っているらしいのだ。

 そのために、この古机氏、一旦、自分のページを閉鎖したのだが、しばらくして再開したところまで読んだ。しかしそれが、実は一昨年のことで、その後、そのページを追跡してみたが最近のものを見つけることはできなかった。

           

 で、冒頭に戻るのだが、気がついてみたらもう辺りは薄暗くなっていたという次第だ。そしてここまで書き進んだ段階ではもうほとんど暮れてしまった模様である。
 いくら閑居している老人といえども、年末ともなればそれなりにクリアーしなければならないこともある。にも関わらず、この体たらくだ。

 まあ、しかしまったく無駄であったわけではない。神谷美恵子というある種多才で、またそれなりに屈折していたひとつの青春像に触れて、論理的にしてかつ倫理的に厳しく見えた、あるいは見せていた人の軌跡が伺え、面白いものがあった。

 それにしても、これを書いた古机氏、長野県の退職教員らしいのだが、ご健在なのだろうか。ネウヨ女性(?)との確執は収まったのだろうか。
 いささか気になるところではある。








コメント (5)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 中途覚醒と図書館とマーケット | トップ | 琉球処分のリアル・ポリティ... »
最新の画像もっと見る

5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (只今)
2013-12-24 10:59:49
 出しゃばり噺も本当の話
●「神谷美恵子は聖者である」
という鶴見俊輔さんの書きだしの本。
 =『神谷美恵子の世界』(みすず書房)=

●俊輔さんが兄事した数少ない一人は
 都留重人さん。
 その重人さんの父が狭心症で倒れたとき手当した
 のが神谷美恵子。
  それは重人の妹澄子宅に、神谷宣郎・美恵子
 夫妻が同居していたから。

● 美智子皇后・神谷美恵子・鶴見俊輔(和子)の
 心温まる関係は、知る人ぞ知る。
返信する
Unknown (六文錢)
2013-12-25 01:38:28
>只今さん
 なるほど。そういうつながりがあるのですね。
 最後の件は、私の読んだ評伝でも載っていましたが、鶴見さんは出てきませんでした。
返信する
Unknown (只今)
2013-12-25 08:33:20
  皇后美智子さんと神谷さんの関係はご承知の通り。
皇后・美智子さんと鶴見姉弟の関係は、
 先に東京新聞、朝日新聞が報じたので今では公になっていますが、
 2006年中村屋で開かれた「鶴見和子を偲ぶ会」に美智子さんお忍びで出席。
 今年開かれた集いにも参加され、そのとき隣席に座していたのはパーキンソン病を押して熊本から駆けつけた石牟礼道子さん。その石牟礼さんと美智子皇后は、水俣のことを語りあい、美智子さんと水俣患者との面会が実現。

 紙谷美恵子さんと鶴見俊輔さんの関係が形となって表れているのは、
 俊輔さんは神谷さんを「聖者」として遇し、
『いのちのよろこび』日本図書センター判を監修。

 
 
返信する
Unknown (只今)
2013-12-25 09:14:07
 訂正一つかたがた
●美智子皇后が「鶴見和子を偲ぶ会」に始めて参加されたのは、新宿中村屋での「一周忌の集い」で、2007年のこと。→季刊誌『環』
 
●その時、俊輔さんは失礼な言動をしないか、一部の人は心配も、
「あなたのお父さんとお母さんが父の祐輔を訪ねて軽井沢や熱海の家に来られた日のことをよく覚えていますよ」と語る俊輔さんに、美智子さんは身を乗りだされ、二人は旧知のように歓談したとのこと。

●また、鶴見兄妹の末娘の内山幸子さんのブログには、次のような一節がある。
 「和子さまの三回忌に、美智子妃殿下のご臨席をいただき、内山さんが宮中にお礼の記帳に行く予定のところ、皇后様から〈鶴見和子病床日記〉を持参で参内するようようにとの連絡があり(中略)帰り車まで皇后様ににお見送りいただき・・・」

 
返信する
Unknown (只今)
2013-12-25 09:31:42
 スミマセン
 内山章子さんは、鶴見和子、俊輔さんの妹です。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。