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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

映画『男子ダブルス』を観る 付:名古屋今池の夜

2021-12-19 16:16:02 | 映画評論
                 
 映画って本当に間口が広いし、私はその一端しか知らないんだとつくづく思った。
 特のこの映画に関心があったわけではない。この日の夕方からメインの会があったのだが、そのためだけに県境を超え、交通費を払って名古屋へ行くのももったいないので、その会の前に久々に映画でもと思って検索した結果ヒットしたのがこの映画。

 名古屋シネマテークがこの日から一週間、「フランス映画の現在」と題して行うヌーベルバーク以降からこんにちにかけてのフランス映画の推移を展望する企画の初日のだしものだ。
 この日は、ジャン=フランソワ・ステヴナン監督の『防寒帽』(1978)と『男子ダブルス』(1986)二本が上映されたのだが、時間の関係で後者しか観ることができなかった。
 
 ただし、両作品の間におこなわれたフランス映画に造詣の深い坂本安美さんのリモート・トークイベントを観ることはできた。その話が、うまく理解できたかどうかはいささか疑問だ。というのは、けっこう固有名詞が出てきて、もともとフランス映画に暗い私にはその具体的イメージがよくつかめなかったのだ。

 そうした前置きはともかく、まずは作品そのものをということで、引き続き映画『男子ダブルス』を観た。タイトルからテニスなどのスポーツの試合を連想しがちだが、それは違う。原題の直訳は「二人の男性」といったところか。

 なぜ二人の男性かというと、前半は二人の男性のロードムービー風の構成だからだからである。ただし、本来は二人ではなく三人になるはずであった。
 というのは堅実な生活を送って四〇歳に至ったフランソワ(監督自身の出演)は、少年の頃林間学校で一緒だった仲良し三人組のうちのひとり、レオを雑誌の表紙で見つけ、彼のもとへやってくる。

 二五年ぶりのフランソワの出現に勢いを得たレオは、もうひとりのかつての仲間クンチュに会いにゆこうと提案し、フランソワもそれにのる。
 クンチュはグルノーブルの山間部で建築業を成功させ裕福な地位にあるが、なかなか会うことができない。二人は、彼の屋敷へ忍び込むような無茶をやってのけるが、これも、かつての遊び仲間であった間柄による悪ふざけのようなものであった。

 このあたりから、話の筋は読みにくくなり、登場する人物たちの相互関係もわかりにくくなる。というのは、この監督のカット処理が独特で、状況を説明するような配置というより、出来事の断片を観客に投げ出すようにして映画はつながってゆくからだ。したがって、話の進行は容易に読み取ることができないままだ。

 クンチュに会えないままにいるなかで、突然、黒ずくめの絶世の美女が現れる。このあたりから話はミステリアスで、いささかのサスペンスを感じさせるものとなる。
 この女性、エレーヌはクンチュの妻なのだが、この夫妻の間もなんだかよくわからない。エレーヌの出現で、彼女が電話をする相手、クンチュウの声のみが聞こえるが、いくぶん冷たい感がある。

 何やかやで、二人の男性はエレーヌを無理やり車に押し込み、誘拐してしまう。もちろん、金銭目当てのいわゆる営利誘拐ではないが、ではなんのための誘拐かというとそれもよくわからない。

 フランソワ、レオ、エレーネの三人の車の旅が続くなか、途中で得体のしれない人間たちによって高級ホテルに軟禁されるのだが、それがどうしてなのかはわからない。
 このホテルでの軟禁はさほど厳密なものではなく、やがて三人はそこを抜け出し再び車での道中が始まる。この過程のなかで、どういうわけかエレーネはレオを嫌い、フランソワとの交流が多くなる。

 そんななか、ついにはレオは二人に振り払われ、寂しく列車で帰ることとなる。
 フランソワとエレーネは雪のグルノーブル付近の山中を、あるいは逃避するように、またあるいはふざけ合うように、もつれて駆け回る。
 一方、カメラは、山中のレールを追い、そのレールが断崖絶壁で折れ曲がり切断されているのを辿り、そこで突然停止し、映画は終わる。

 いかがであろう。
 私はいつも、映画を語るとき、そのストーリーを上記のように書くことはしない。なぜなら、これから観ようとする人たちのことを考えるからである。
 しかし、この映画に関してはいいだろうと思う。というのは、先にちょっと述べたように、監督自体がストーリー展開に寄り添ったり、そこにある意味を開示するような撮り方、編集の仕方をしていないからだ。

 だから、上に述べた私が受け取ったストーリーやあらすじそのものが「そうではない」ことはじゅうぶんありうる。だいたい、上の私の記述そのものが、連続する映像の中から、私にはよくわからない部分を全部捨象して組み立てたものに過ぎないのだ。

 監督は、起承転結にこだわることなく、出来事の断片を軽重を無視したままでつないでゆく。したがって、最後に至っても収拾が付けられないままにいくつかのシーンが残されている。
 もちろんこれは、監督の編集能力の不備ではなく、むしろ禁欲的に自己同一的な事態に収集されてゆくことを避けているからに違いない。
 そういえば、余計な感傷や感情移入を避けるためだろう、映画音楽は一切使われていない。現実音と人の放つセリフのみだ。
 映像は、鏡像などが混入する場面もあるが、クリアである。とりわけ、ラストの雪山のシーンはキーンとくる山の冷気のなか、男女が駆け、転び、もつれるシーンがとても鮮やかであった。

       *    *    *    *    *    *

 この映画を観てから、ウニタ書店に立ち寄り、書を一冊購入し、かねてより、企画されていたのだが、コロナ禍のなか、延期されていた催しに参加した。
 それは名古屋今池の一角を照らしてきた「壺」→「葦」の1960年代後半からの半世紀以上の歴史に本年3月末でピリオドを打たれたことを記念し、「壺」時代は客として、「葦」時代はその女主として頑張ってきてやがて米寿を迎えるという小葦さんへの謝恩と、店そのものの終焉を見送る会であった。
 その両時代を知る人がもはや少ないなか、私が冒頭の挨拶をした。私が話したエピソードのなかには、もはや還らぬ人となった10人近い人々との交流が影を落としていて、自分で話していて胸を突くものがあった。

 帰宅してからふとつけたTVでは、たまたまドラマをやっていたが、出演者がいかにシリアスに演じていても、その落とし所がわかってしまい、視聴者をどういう「共感」に取り込もうかということが読めてしまう底の浅いドラマであることに興醒めして、観るのをやめた。
 
 こうした「自同性への回帰」というドラマそのものが、「現実固着」のイデオロギー措置ともいえることがわかるのも、今日観たような映画の副作用かなと、思ったりもしている。

 

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