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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

ダヴィンチ×ミケランジェロ&ジム・ジャームッシュ

2017-11-18 01:27:50 | アート
  岐阜市歴史博物館で開催中の「レオナルド×ミケランジェロ展」に行ってきた。
 こうしたビッグネームの催しが岐阜で行われる機会は少ないのだが、今年は、信長の岐阜入城450年、そしてこの地(旧・井ノ口)を岐阜と命名をして450年ということで、そのメモリアル行事の目玉として、東京についでの開催となった次第。

    

 やはり「モナリザ」などの著名なものは来ず、素描や習作が多く、完成したタブローや彫刻を期待した向きには、その少なさにいささか期待はずれかもしれない。
 ただし、それでもなお、彼らの対象へのにじり寄るような姿勢、ないしは誠意といってもいいほどのディティールへの執着などを観ることができ、それ自身が立派な作品であると同時に、最終的な作品を生み出す表現という活動そのものの痕跡であることを知ることが出来る。

            

 ここに載せた写真は、ほとんど会場で観られるものである。人間の筋肉や馬の肢体の観察、情景の構想などなど、それぞれがその詳細を極めようとする努力にほかならない。バチカンのシスティーナ礼拝堂で十数年前に観たミケランジェロの天井画や祭壇背後の「最後の審判」などという大作も、その各部分ごとの詳細な下絵や習作があってのものだったことを改めて知った。

        

 最後に載せた大理石の彫刻は、会場のなかで唯一撮影可という作品で、慌ててガラケーで撮ったものだが、「十字架をもつキリスト」、別名「ジュスティニアーニのキリスト」といわれているものである。
 ただしこれは、ミケランジェロの生前には完成を見ず、その死後、弟子によって補作されたものという。

             
 
 普通、ゴルゴダへ向かうキリストは、もっと痩身で、少し暗く悲劇的な様相で表現されるものが多いような気がするが、このキリストは骨太で肉付きもよくどっしりしていて、地上の王者の趣を持ったものとして表現されている。
 その表情にもほとんど曇りや陰りは見られず、逆に明るさと威厳に満ち溢れているようだ。
 中世や近代ロマン派などとはまた違った、人間肯定のルネッサンスの精神を具現したものではと愚考する次第。

           

 今日一日は目の保養と決め込んで、帰途、柳ケ瀬でバスを降り、本屋へ立ち寄ったあと映画館へ。
 観たのは、ジム・ジャームッシュ2016年の作品『パターソン』。 
 ニュージャージー州のパターソンに住む、地名同様の名前パターソンというバス運転手の一週間を描いたものである。

           

 彼の日課はほぼ決まっている。
 朝、その連れ合いよりも早く起き、朝食を済ませて仕事に出る。バスの運転中の乗客の会話に耳を傾けながら仕事を終え、帰宅して連れ合いと一緒に夕食を済ませたあと、飼い犬のブルドッグをつれて散歩にでる。そしてそのついでに行きつけのバーに寄っていっぱい引っ掛ける。

           

 こうした何の変哲もないような日々の連続なのだがもちろんさまざまな差異が生じる。それらの差異が物語を紡いでゆくのだが、そこには一本の芯のようなものがあって、それは、彼が詩人だということだ。
 彼は仕事の合間などに、秘密のノートに詩を書き付ける。どうも出版や発表の意図もあまりないようだ。にも関わらず彼はことばを反芻し、それを書きつける。
 さまざまなエピソードはともかく、詩人としての彼が遭遇するものがこの映画の核心であるが、その経緯は語るまい。

           

 彼の連れ合いが面白い。
 愛らしい感受性をもつ草間彌生ばりのアーティストなのだ。こちらの方も、そのアートを売りにするのではなく、それを活かしたクッキーのデザイン、その売上などで成果を示す。
 この二人、羨ましいぐらい仲がいい。

           

 最後に、日本人役で永瀬正敏が出てくる。
 短い出番だが、落ち込んでいるパターソンの再生を促すポジティヴな役どころである。

           

 ルネッサンス芸術とジム・ジャームッシュの映画、時代もジャンルもまったく異なるが、微細な差異へのこだわりがひとつの物語を形成するという点では共通するのかもと無理やりくっつける次第。

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