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【読書ノート】ですが、まずはAIChatGPTの実験からはじめて・・・・

2024-02-18 01:37:32 | 書評
 読んだのは東浩紀『訂正可能性の哲学』ゲンロン社であり、結構面白かったが、その内容を述べる前に、ちょっとした実験を思いついたので、それを実施してみた。
 それというのは、今流行りのAIChatGPTにそれについて述べさせるということである。

 最初の設問は、「東浩紀『訂正可能性の哲学』とはどんな書ですか?」というものである。それへのAIChatGPTの回答は以下のようであった。

「東浩紀の『訂正可能性の哲学』は、哲学や科学の中で「訂正可能性」という概念に焦点を当てた書籍です。この概念は、我々が持つ知識や理解が常に修正や改善の余地があることを指摘しています。東浩紀は、この訂正可能性が科学や哲学の進歩を可能にする重要な要素であると主張しています。また、この本では、現代の社会や文化における訂正可能性の意義や影響についても論じられています。」

 少し設問を変えてみた。それは、ちょっと突っ込んで「東浩紀の『訂正可能性の哲学』の内容はなんですか?」を問うものであった。
 それへの回答は以下のようであった。

「『訂正可能性の哲学』では、東浩紀が訂正可能性という概念に焦点を当て、その哲学的意味や社会的影響について考察しています。本書では、次のようなテーマが取り上げられています。
1.知識と修正: 科学や哲学における知識の性質について議論し、それらが常に改訂や修正の対象であることを強調します。
2. 訂正可能性の意味: 訂正可能性が我々の知識や理解に与える影響について考えます。新しい情報や理論が出てきたとき、それが我々の以前の知識や理解をどのように変えるかを探求します。
3.科学と訂正可能性: 科学の進歩がどのようにして訂正可能性と関連しているかを考察します。科学理論や仮説が実験や観察によって検証され、修正されるプロセスに焦点を当てます。
4. 社会と文化における訂正可能性: 訂正可能性が社会や文化に与える影響について探求します。特定の信念や慣習が修正されることで、社会や文化がどのように変化するかを考えます。
5.個人的・集団的な学び: 個人や集団が新しい情報や視点を受け入れ、以前の認識を修正するプロセスについて考えます。

 総じて、『訂正可能性の哲学』は、知識や理解が常に改訂される可能性があることを強調し、その影響を深く探求しています。」

        

 以下はそれに対する私の感想というか意見である。
 一口に言って、「フ~ン」と感心した。こんなふうにまとめれば、実際に読んでいない学生たちが授業での小論文などにこれを使いたがることがよく分かるのである。一見、もっともらしいまとめで、特にとんでもない間違いがあるわけではない。

 しかしである、これは実はほとんど何もいってはいないし、一般論にもならない同義反復的な羅列にに終始しているにすぎない。要するに、AI はこの書を具体的に読んではいないし、「訂正可能性」という言葉から連想される単語を並べているに過ぎない。

 「我々が持つ知識や理解が常に修正や改善の余地がある」という回答があるが、こんなことは小学生でも知っているし、誰も否定することはないであろう。
 第二の設問には、1~5まで項目を立てて、さも詳しく答えたかのようであるが、これも1~5まで全くの繰り返しにすぎず、この書の内容とも全く対応していない。

 私は、ある程度東の書を追っかけてきて、もちろんこの書も読んだのだが、上記のAIChatGPTがいうような内容だったら彼はわざわざこの書を書かなかっただろう。
 
 前世紀末、柄谷行人や浅田彰の『批評空間』で論客としてレビューして以来、98年には『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』の単著で華々しくデビューし、以後論述のスタイルや、ゲンロン社創立で自らゲンロン空間の管理を行うなどしながら、『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』(2001)、『一般意志2.0――ルソー、フロイト、グーグル』(2011)、『ゲンロン0――観光客の哲学』(2017)、そして昨秋のこの『訂正可能性の哲学』などなど、まさに自分の思考を各面で「訂正」しながら、その理論を進めてきた(なお、ここに揚げた他にも多くの著作があるが、私がつまみ読み的に読んできたのはこれら)。

 AIChatGPTには、こうした彼の歴史的遍歴や、その都度の状況と彼の論旨の変化が全く反映されていない。
 そしてこれらの遍歴の中で、彼が参照し、思想的に対峙してきた古今東西の思想家たちの存在も全く考察の外である。

 それらは、例えばこの書だけでも、ヴィトゲンシュタイン クリプキ  トクヴィル ハンナ・アーレント ミシェル・フーコー ジャンジャック・ルソー リチャード・ローティー ジョン・ロック  トオマス・ホッブズ ポパー エマニエル・トッド プラトン ヘーゲル ジョージ・オーウェル(順不同)などである。

 そして、これらの思想家たちを参照しながら彼が進めてきたのは、ChatGPTがいうように、「この訂正可能性が科学や哲学の進歩を可能にする重要な要素である」からではない。東のテーマは「科学や哲学の進歩」といった抽象的なものではなく、私たちが現実に暮らしているこの世界において、「友」と「敵」を識別し、闘い合わなければならないのはどうしてか、それを止揚する道はないのかという極めて実践的なものなのである。

 だからそれは、ジャック・デリダの研究を受けて書かれたデビュー作の『存在論的、郵便的』以来の一貫した追求ともいえる。彼はそれを、上に挙げたような先行する思想家たちとの対話を深める中で、まさに自分自身で「訂正可能」な部分を訂正してきたその現時点での成果がこの書といえる。

 思うに、ChatGPTにはなんの志向性もなく、蓄積されたからの情報の抽出以外の能力はない。
 しかし一方、21世紀はこうしたビッグ・データの蓄積に依存した「人工知能民主主義」に依る統治が一般化しつつある。張り巡らされた監視情報網、各個人の嗜好まで分析保存され、「私の心の秘密」などの甘い領域までもがもはやデータ外ではない。

 そして、そうしたビッグ・データから抽出されるある種の「一般意志」によって運営される政治の領域は、それを絶対的な価値基準として全体主義的な統治に至りやすい。実際のところ、そうした国や領域を私たちは知っている。

 この書は、そこへと至らない「訂正可能」な領域をどこに見出してるのだろうか。東が最後に引用するのはトクヴィルの『アメリカの民主主義』とハンナ・アーレントの『革命について』である。
 この両書で共通に語られているのはアメリカ建国時の各領域、各単位での何でもありのミーティングでの熟議の存在である。

 体制内に組織されたものの外部の人びとのミーティングの広がりは、現在なら具体的な集会ではなくとも、ネット上のそれとしても開催可能である。もちろんそれらも、監視管理の対象ではあるが、私たちは、ネット上でもその外部でも、それらをはねのける賢いハッカーであらねばならないが。

 東の書の、もっと忠実な読解を志したのだが、ChatGPTを試みたばかりに肝心の読みについての記述は雑なものになってしまった。
 ただし、今世紀の統治方式として大勢を占めるであろうビッグ・データに依拠した「人工知能民主主義」が、いかに浅薄なデータの集積によっているのかという実例を示し得たのではないかと思っている。

 

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