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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

西行・あべのハルカス・道頓堀・フェルメール・大阪城・難波宮(前)

2019-04-06 23:12:13 | 写真とおしゃべり
 この国の吟遊詩人といえば西行や芭蕉が思い浮かぶ。ただし、芭蕉自身が自分の吟行の旅は西行にならったものであると言っているから、元祖吟遊詩人は西行といえる。

        
 西行についてのエピソードはいろいろあって、まずは北面の武士であった彼がなぜ23歳の折、突如、出家したかを巡っての謎がある。
 ある説は、親しい友人の急逝を目の当たりにして無常観に襲われたという。
 またある説は、ベタだが失恋によるとする。ただし、この失恋の相手が複数あって、これと特定できぬとあって、一層、確たるところはわからない。

 定住を好まず、つねに旅の途上にあったという点も冒頭に述べた元祖吟遊詩人としての面目躍如たるものがある。
 彼がどれくらい歩き回ったのかを調べると、北は奥羽地方から南は四国にまで及ぶ。どういうわけか九州には足を踏み入れていないが、これがもし実現していたら、当時のこの国の支配領域全部をカバーしたことになる。

        
 私にとって興味深いエピソードは、彼が自分の死に様をどんぴしゃり、その歌で言い当てていることである。自殺でもない限り、人は自分の死に様をあらかじめ言い当てることはできない。
 ましてや西行のように、その時期や情景まで言い当てることはまずはできないであろう。ちなみに西行が詠んだ自らの死の風景とは以下のようである。

 ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ (『山家集』)
 ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比 (続古今和歌集)

        
 二つ挙げたのは、微妙な表記の違いがあるからである。とりわけ違うのは、「花の下」と「花の元」だが、私の乱暴なボキャ能力からすると、「下」も「元」も大して変わるまいということになる。もっとも、「下」は「もと」とも読むが、「元」は「した」とは読まない。
 私の語感としては「もと」の方が、「した」という空間的位置関係よりも広く状況そのものを表現しいるように思えるのだが、これも今様の解釈にすぎないのかも知れぬ。

        
 で、この歌が的中したかどうかの検証だが、彼が亡くなったのは文治6年2月16日で、これはもちろん旧暦だから、西暦換算では1190年3月31日ということになる。とすれば、今年の開花状況などからするに、やはり的中していることになるだろう。ただし、当時はまだ地球温暖化などは始まっていなかったし、今回、実際に行ってきた彼の入寂の地、大阪府南河内郡河南町の弘川寺は山間部(大阪府と奈良県の県境近く)であるから、まだまだ満開ではなく、贔屓目に見ても咲き始めだったろうと思われる。
 ここまで書いてきてふと気づいたが、この開花状況などは昨今のソメイヨシノをつい基準にしてしまっている。しかし、ソメイヨシノは江戸末期に生み出されたクローン桜だから、西行の時代にはない。きっと別の桜のもとで亡くなったのだろう。

        
 といったことで、今回の大阪への旅の最初は、西行入寂の地、弘川寺であった。
 近鉄電車の富田林駅から、一時間に一本しかない金剛バスの河内行に乗り終点で下車。そこから山地へ向かって10分ほど歩いたところに古刹弘川寺がある。
 西行は死の前年に当時のこの寺の座主、空寂上人の法徳を慕って訪れたとされる。

        
        
 そんな経緯で、この寺には西行ゆかりの御堂や墳墓などがあり、近年になって設置された西行記念館もある。ただし、それらがなくとも山裾に抱かれた落ち着いた風情をそなえ、回廊沿いの枯山水風の庭園も、周囲の山地を借景にしっとりとした味わいを見せるなど、それなりの風格と雰囲気をもった寺である。

 まあ、それはともかく、西行の足跡はちゃんと観ておこうと、本坊などの離れ風に建てられた西行記念館を一通り見学する。しかし、やはりこの寺のハイライトは、往時の西行の名残りを留める場所であろうとそちらへと向かう。

        
 本堂横の山の斜面に設けられたやや険しい石段を登り、もう少しで息が上がりそうになる地点に、やはりこの場所にはこれかといった風情で西行堂が建っている。この西行堂は享保17年(1732年)、この地を西行終焉の地たることをつきとめた歌僧似雲法師によって建てられたもの。

        
 その似雲法師が発見、確認した西行の古墳・墳墓はさらに登らねばならない。もう、弘川寺の境内も全く見えない山地へと差し掛かり、どれくらい先かと心細くなって来る頃、ここにこんなところがと思うほど広がった平らな土地に出る。
 その突き当り、お椀を伏せたような高さ10メートルほどの半円の古墳が西行の墳墓である。正面両側の大きめな花筒には、折からの桜の枝が手向けられていた。

        
        
        
 同じ平地には、例の「ねかはくは・・・・」の歌碑があり、さらには、ここまで西行の足跡をたどってきた似雲法師の墳墓も、西行のそれと向き合うように設えられている。
 なお、この似雲法師について調べたが、主著に「としなみ草」という歌集があり、やはり西行を慕っていた歌人らしく、以下のような歌があるという。この歌、下句は諧謔じみていて、全体の歌意は、西行に比べての自己謙遜となっている。

   西行に姿計(ばかり)は似たれども心は雪と墨染の袖

 といったことで、第一日のメイン、弘川寺探索を終えて、ここを毎時30分に発車するというバス停へと向かう。
 バス停で時刻表を改めて確認して目を疑った。な・な・なんと、確かにネットで確認してきたように毎時30分の発車なのだが、私が乗ろうとした14時30分のものはないのだ。要するに、13時30分はあり、また、15時30分はあるのだが、14時代のみはすっぽり抜けていてないのだ。ここでの一時間をどう過ごせばいいのだろうか。

        
 山近くの集落で、喫茶店もコンビニもない。いわゆるお店屋さんが一軒もないのだ。そんななか、「ハイカーさん歓迎!」というカフェらしきものの看板が。藁にもすがる思いで矢印が示すように歩を進める。ダラダラとして登り坂をたどるとそれらしき建物が。これぞ地獄に仏、弘川寺の霊験あらたかと近くの看板を確認したら、「金・土・日のみ営業」とあるではないか。訪れたのは水曜日、嗚呼、ナンタルチア、惨タルチア。

        
        
 仕方がないので、山あいの集落の風情や花々を写真に収めたりして時間を過ごす。この辺の独特の建築様式らしきものを見つける。古い家は同様の文様や様式に従っているし、帰途、バスから見かけた富田林の市街でも、旧家らしきところはこうした建物であった。家屋の建築が全国一律、機能本位のあじけないものになってしまったいま、こうした地方色を残した家屋に出会うとホッとした気分になる。

          
        
 なんとか時間を潰してバスで富田林へ到着、近鉄で阿倍野橋駅へ。
 その駅の上には、日本一のあべのハルカスビルが聳える。近くで見上げても首が痛くなるだけだ。首を痛めずに観られるのは通天閣の方だ。あべのハルカスははじめて観たが、通天閣は2、3度は見ているはずだ。
  
          
 天王寺公園近くのホテルにチェックインして、地下鉄で心斎橋下車、心斎橋筋を通って道頓堀へ。ここ商店街は日本で指折りの繁華な通りであろう。若者たちや私のようなお登りさん、加えて諸外国からのヴィジターなどなど様々な衣装風俗が通りを埋め尽くし、諸言語が飛び交い響き合っている。

        
        
 道頓堀の飲食街も一昔前と様変わりし、若者向けの騒々しい店が大半のようだ。昔なじみの河豚の「ずぼらや」へ入る。ここは落ち着くし、河豚といってもリーゾナブルな値段で食わせてくれる。
 河豚御膳に冷たいお酒で、5,000円でお釣りが来る。

        
 法善寺横丁の水掛不動明王などを見て難波まで行き、ホテルへ帰る。
 弘川寺の帰途で、一時間のロスが出てしまったが、マアマア大過なく、山あいの落ち着いた風情を満喫できたし、夜はまた、それらを全て打ち消すような大都会の喧騒を味わうことができた。
 明日、二日目は、フェルメールからの幕開けだ。
 


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