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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

情報が多すぎて話が通じない?

2015-02-11 16:52:41 | よしなしごと
        
 タイトルはようするに「情報過多時代がかえってディスコミュニケーションをもたらしているのではないか」ということについてである。

 母である女性の友人のFBを観ていたら、自分の子供についてのある種の不安のようなものが綴られていた。
 かつてはとても普遍的でみんなが知っていたような童話を自分の子が知らないことに関してだった。もちろん、その子の怠慢だとかいった問題ではまったくない。
 要するに現在は、情報やそのソースが実に複雑にかつ多様化しているので、かつてのようにスタンダードな何かといった普遍的な共通項そのものが見いだせなくなっているのだ。

 これらは、文学や音楽といった分野でも一般化している。
 かつてのベストセラーといわれた文学作品などは、いわば社会的現象であり、それを直接読んでいない人も、そのダイジェストを知っており、共通の話題には成り得たのだった。
 音楽も、ミリオンセラーといわれるものは、そのジャンルのいかんにかかわらず、殆どの人たちが知っていたし、またメディアも繰り返しそれを放送し、否が応でも共通の話題になったりした。

 ようするに、情報が限定されていたため、そのなかからセレクトされ、突出したものに関しては、それを肯定するか否定するかにかかわらず、広く普遍性をもつ情報として流布したといえる。

 私は古い人間だから、若いころの思い出というと一挙に半世紀以上、ないしは60年、70年と遡ってしまうのだが、私が物心ついた戦時中は、情報そのものが大政翼賛会や大本営方式で一元化されていて、それ以外の情報はなかった。
 もちろんそれらは統制され恣意的に限定されたものであったから、その外部にも情報はあったのだが、それは庶民には閉ざされていた。統制の枠を超えてそれらの情報に接しようとする極めて少数の人たちがいたが、彼らは、非国民としてひどい場合には憲兵隊へしょっぴかれ、治安維持法違反で牢へと繋がれたり、その生命を奪われたりした。

 敗戦後、そうした桎梏はなくなったが、情報発信機能とそれによる情報量はまだまだ限定されていた。
 新聞や雑誌という活字媒体のほかは、ラジオしかなく、そのラジオも、NHKに限定され、しかもその選択肢は第一放送、第二放送の二つのみだった。
 そうそう、映像を伴う情報としては映画を挙げるべきだろう。戦後、急速に伸びたスクリーン数は、1950年代の後半から60年にかけて、全国で7,500ほどであったが、2014年末では3,360ほどである。*

年配の方の実感としては映画館はもっと減っていると思われるだろう。
 実際にかつては街のあちこちにあった映画館は今では見る影もなく、実感としては10分の1に減ったといっても誇張ではない。この落差の秘密は、上の統計がスクリーン数によるものであることによる。3,360ほどのスクリーン数のうち、一般映画館は約450ほどであり、残りの2,900余はシネコンのものである。そしてそれらは、大都市その周辺に位置するなど著しい偏りを見せている。結果として、徳島、高知、鳥取などでは全県で10のスクリーンしかないことになる。
 また、富山県、奈良県、島根県では、シネコン以外の映画館は0となっている。

 
 
 話がだいぶ逸れた。
 ようするにかつての私たちは、限られた情報源による限られた情報の共有を余儀なくされ、したがって人々の間に共有される情報内容も限定され、その間のコミュニケーションもそうした共有された情報に依拠するものであった。

 しかしやがて、民放の解禁、TVの普及、紙媒体の多様化、そしてPCなどIT機器に依存した情報資材の普及につれ、情報の量とそれがカバーする領域は飛躍的に拡大した。
 各種情報の媒体は、無政府的にそれぞれの情報を吸収し、そして拡散するに至っている。「メディアはメッセージである」として、メディアを単なる媒体としてではなくそれ自身のメッセージ性を喝破したのはマクルーハンであったが、事態はまさのそのように、あるいはその思惑すら越えて進んできた。

 こうしたなか、人びとが共有する根幹的普遍的な情報が確固としてあってその幹からそれぞれの情報が分化してゆくという樹木でイメージされる組織化された情報のあり方そのものが無効になりつつあるのだと思う。
 共通の幹などはもはやなく、地表からそれぞれの枝が思い思いに伸びているというイメージであろうか。

 冒頭に述べた、情報ないし教養においてのわが子との共通項の喪失を指摘する母の話は、このような情報の無政府的な拡散の結果を反映していると思われる。

 実際のところ、無限に拡散される情報に、有限な個人が対応しきれるわけがない。
 だから人々は多くの情報を諦め、放棄する。ただし、将来、有用なものはクラウドのように外部の蓄積機能に頼ったり、今すぐ必要なものについてはGoogleのような検索エンジンを用いたりする。

 私ももちろんそうした利用法をしているのだが、これらにもいろいろ問題があるようなのだ。

 長くなったので以下は後日に。

テキストなどのダイジェスト化、検索機能についての問題
根幹なき情報の漂泊とその恣意的利用の例 ネウヨ?ブサヨ?
情報過多によるコミュニケーション不在の問題
にもかかわらず、テクノロジーを忌避できないということ


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