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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

『新対話篇 東浩紀対談集』ノートをとったまんま

2021-06-03 23:41:49 | 書評

 表題のものを読み、もう一度目を通してきちんとまとめてみようとしていたところ、姉の葬儀で二日を費やすなどして図書館への返却日が来てしまった そこで文字通り、「読書ノート」で、ノートしたままを書きとめておくこととする

            

 表紙の写真で明らかなように、以下にノートした以外の人との対談もあって、決してそれらはみるべきものがなかったというわけではないが、いま私が抱えているテーマとの関わりでノートをとったために省略されている
 また、私のノートのとり方として、読点はしるすが句点は省略するので、以下の表記もそれに倣っている

 なお、ここでの東は単にホスト役にとどまることはなく、相手によってはむしろ東の主張のほうが目立っていることもある その意味では、東の立場を知るいい機会でもあるし、彼がこの対談集に「新」の接頭語をつけた「対話」というものへの意義付けを表しているともいえる
 それでは、荒削りなノートであることを承知で読んでいただきたい

中沢新一と
中沢 盆踊り=生者が作る踊りの輪の中に死者たちを招き入れてともに踊るという趣旨
 死者を生者の世界に祭のイリュージョンを通して取り込むこと
 死者は、国家や靖国神社に帰るのではなく、竿灯の先に帰ってくる
 竿を立てて死者を迎える人びとはそれを通じ死者とのある種のつながりを再確認する

         


東 戦後日本では、国家が慰霊に失敗し続けている しかし大衆の無意識のレベルでは慰霊の行為は続いていて、国家の硬い層の下の、種に対する別の感性が顕在化している

 震災地や原発被害地跡に記念碑などの建立をするのではなく、(核汚染で人が離れたため発生した)放れ牛の生存なども含めた動植物の聖域(サンクチュアリ)とする
 明治神宮 元は練兵場があった殺風景な箇所を一〇〇年かけて見事な森にしてしまった 資本主義的な時間から解放された庶民のためのサンクチュアリ その方が、追悼施設や慰霊碑を建設するより、はるかに列島文化本来の慰霊に近い


加藤典洋と
東 今やリベラルの側も天皇制は尊重し天皇に対して敬意を表すのが基本 (論壇でも)若い論客もまったく天皇制そのものを疑問に思わない
その不気味さ

加藤 天皇が亡くなった時、天皇を「彼」と書いたのは私一人(?)
 共和制への道が自然 天皇は京都の御所へ帰ってもらう
 天皇で安倍を止めるという意見 内田樹などの問題
 
【六文銭の私見】天皇専政の復権が現実になるとしたら、たとえそれが安倍や菅が対象であっても、天皇の専政は拒否すべきだ 天皇が安倍や菅に対してより公正でいられるとしたら、天皇がその憲法の規定にある限り、政治的にニュートラルだからにすぎない
 ようするに、天皇は政治的な決断を迫られることはないから しかし、もし天皇が政治的決断を下すこととなれば、事態はまったく変わってくる
 安倍や菅の政治的決断が公共性を欠いたパーソナルなものであることはとことん批判すべきだが、それに代えての天皇専政はまったくのナンセンス
 
國分功一郎と
國分 日本においての憲法論議 文学者が文学的に語ってきた 憲法学者も文学的に語る人が多い これは評価すべき面もある

東 憲法そのものもいろんな思惑(GHQ 当時の日本の支配層など)が絡んだ重層的なもので、国民が政府を縛る合理的なものではない その意味で憲法そのものも文学的
 商品を開発する、映画を作るなどなど様々な行為があるが、必ず目的とはズレる何かが生じる そのズレが文学的であり哲学的な感覚の発生 私=東の言葉では「誤配」

東 ベ平連にあって現代のリベラルの運動にないもの それは非合法なものへの容認 ベ平連の実践→脱走兵への支援 スエーデンのパスポートの偽造して海外へ
 現在の運動はこれらを許容しない どう行列をさばき大衆をコントロールするか 警察に睨まれないよう終電できちんと帰りましょうまで
 

 ベ平連の時代 祝祭的な市民運動と非合法すれすれの運動はセットになっていた 鶴見俊輔自身が座り込んでごぼう抜きにされている 祝祭は実体的な権力闘争につながっていた
 いまは非合法なものは完全に排除され、残ったのは文化祭のような安全な祝祭 完全に権力のコントロール下にあるガス抜きに過ぎない


            

*國分 正義=合法性ではない 市民的不服従で徴兵・兵役に応じなければ非合法 ただしそれは正義になるかもしれない
 非合法化を恐れ、文化祭に終わっているのはジャスティス(正義)ではなくコレクトネス(正当性)にしか過ぎない

*東 コレクトネスはあくまでの現在の時間のうちであるがジャスティスは時間を超える

 闘技民主主義と熟議民主主義の統合として合意形成(アーレント的な政治概念) これが機能しないとすべてを多数決で決めるしかないことになる

柳美理&飴屋法水と
 種の論理・数の論理が内在している論理=一定数の個体は死んでも構わない 生き残りさえいれば・・・・
 その実践的適応としての戦争 あるいはある体制内の実践としての全体主義


 以上、まったく不十分なまとめだが、文中にもある「闘技民主主義と熟議民主主義の統合として合意形成」が強調されていて、これがまた「新」対話篇というべき、対談、座談に寄せる東の思い入れでもあるようだ
 


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2 コメント

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Unknown (酒井加代子)
2021-06-04 03:41:02
時のリーダーさんたちと、東浩紀のことが大きくわかったような、わからないような、。

三嶋さんのまとめのおかげで、わたしもよんでみようと思いました。
金山駅の丸善で立ち読み読んではいたのですが。なにせ立ち読みでは、東さんに失礼でした。 今度は、図書館にします。

ありがとございました。
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Unknown (六文銭)
2021-06-04 11:16:54
>酒井さん
 コメントありがとう。
 いろいろな分野の人との対談で、わかりやすいものや興味の対象としての深浅の差異などありますが、それぞれ何らかの意味で結構刺激的でした。
 この種の書では、あらすじというより、それぞれの人がどんな口調で何を語っているかを受け止める必要がありますから、やはり、立ち読みよりもじっくり構えて向き合う必要があるでしょうね。
 以上、よろしく。
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