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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

春の名残とその結末を「いかにとやせん」

2013-04-08 03:10:20 | 歴史を考える
 枝垂れ桜など遅咲きのものはまだ花をつけているが、ソメイヨシノなどはもう散ってしまった。冬の間地味な佇まいを見せていた木々が若葉をつけ始め、緑が次第にあたりを支配しようとしている。
 散った花が水に漂う花筏の風情はよしとしても、道端で折からの雨に打たれて薄汚れたりしているのを見るにつけ、春の名残ということばが頭をよぎり、そしてその連想からひとつの歌が浮かび上がる。

   風さそう花よりもなおわれはまた春の名残をいかにとやせん

          
                お決まりの花筏

 このうたは、江戸城本丸の大廊下(松の廊下)で、吉良上野介に対し刃傷沙汰に及んだ浅野内匠頭長矩が、切腹を命じられた際の辞世のうたとされる。春の名残のなかに若くして(33歳)死を迎える我が身への思いと、同時に、吉良を討ち果たせなかった無念の思いが込められているといわれる。時に、1701年4月21日(旧暦では元禄14年3月14日)のことであった。
 事件の審理は素早く、浅野長矩の助命の動きも多少はあったようだが、結論は切腹と浅野家取り潰しで、なんと彼が事件を起こした11時40分頃から7時間後の18時30分には、浅野は切腹させられている。

 この話は、芝居の『忠臣蔵』などでさまざまに脚色され、それによれば、吉良のイジメに耐えかねた浅野がついに堪忍袋の緒を切って刃傷沙汰に及んだことになっているが、当時の証言などを参照すると、まったく違う実相がみえてくる。
 芝居では、松の廊下で対面した浅野に対し吉良が悪口雑言の限りを尽くし、それが殺傷事件の発端であるように脚色されているが、実際には、吉良が他の人と何か業務上の打ち合わせをしているところに通りかかった浅野が、突然背後から斬りかかり、まず背中に傷を負わせ、驚いて振り返った吉良の額に2つの傷をつけたというのが当時松の廊下にいた他の人の証言として一致している。

        
          さくらまつりの幟がはためくが路上には散った花が

 浅野が突然斬りつける理由も実際のところ判然としていない。勅使下向の接待役になった浅野に対し、そのノウハウを吉良が教えなかったというのが芝居などで採用されている理由だが、実際には、浅野がその役に任じるのはそれが二度目であり、不案内であったとは考えられないという。
 その他、塩田の経営を巡る競争だとか、稚児の取り合いだとか、あるいは、浅野自身の心理的内因によるものだとか諸説があるが、これと確定できるものはないという。

 こうしたこともあって、芝居などでは徹底した悪役で卑怯者とされる吉良に対し、地元の愛知県、特に三河地方ではまったく違う評価がある。
 治水や新田開拓に力を注ぎ、今もなお、吉良堤という堤防が残っていたり、彼が赤馬に乗って領地を見回りをしたことに由来を持つ郷土玩具・赤馬も存在する。
 しかし、これらにも地元びいきの誇張がなきにしもあらずである。

        
            しだれは今盛ん 背後のソメイヨシノは葉桜

 もっとも私の知り合いで、赤穂城かなんかの資料館へ行った折、「浅野長矩などは思慮を欠いた短気者にすぎない。それに比べてわが吉良義央は・・・・」と一席ぶって、現地の案内人を辟易させたひとがいるというから、愛知県人には吉良への一方的な悪評に耐えかねている面が多分にあるのだろう。

 その吉良義央も、松の廊下の事件の後、1703年1月31日(旧暦では元禄15年12月15日…討ち入りは14日夜半だが絶命は15日未明)に赤穂浪士47名の襲撃によって命を絶たれるのだが、この過程にも疑問は残る。                     (次回へ続く)
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