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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

わかっていそうでわからない「文学」って・・・・。佐々木敦を読む。

2021-10-15 15:18:18 | 書評

 いわゆる文学には暗い方なのです。
 ときに、過去に読んで面白かった作家のものを目にしたり、あるいは論文調のものばかりでもつかれるからと、図書館の新着書の中にある面白そうなものをなんの前提知識もないのに借りてきたりが私と文学との接触法にすぎません。
 だから、たとえそれが、いわゆる「純文学」といわれるものであっても、私の読書態度は極めてエンタメ的だといえます。

                

 そんな中途半端な私に、友人からの一冊の書が届きました。よければ目を通してぐらいでそんなに積極的に進められたわけではありません。
 でもそれが良かったのです。文学の精髄を極めようとするつもりなどまったくない私が、文学だとか小説だとかいわれている分野は一体どうなっているのか、今日、どんなものがどう読まれているのかを野次馬的に知るには適した書だと思ったのです。

 著者の佐々木敦(1964~)は名古屋出身の人だが、映画評論から文芸評論、音楽活動と広い関心を持ち、いわゆる文学プロパーの人ではありません。
 この書の表紙から見るに、いかにも文学を対象としたハウツーものといった感じで、その意味では、中途半端な私を啓蒙してくれるかもしれないという期待がもてます。
 なお「ニッポンの文学」といっても、その対象期間は70年代以降の半世紀ほどに限られています。

 プロローグで彼は、文学と文学でないものの区分を「芥川賞」と「直木賞」の対比で始めます。ようするに、芥川賞の対象はいわゆる「純文学」であり、直木賞はそれ以外のエンタメ的要素の小説ということになっています。
 では、芥川賞はどのようにして選ばれるかというと、基本的に「文芸誌」と称する「純文学誌」に掲載された新人作家の作品の中から選ばれるといいます。しかも、この文芸誌は限定されていて、具体的には、新潮社の「新潮」、文藝春秋の「文學界」、講談社の「群像」、集英社の「すばる」、河出書房の「文藝」(これは季刊誌)の五誌だということです。

 では、これら文芸誌はどのような基準で小説を載せているのかというと、いわゆる純文学と言われるものをです。その場合、純文学とは「純文学ではないものではないもの」、つまり「純文学とは純文学である」という完全なトートロジーに陥っていることになります。

 しかし、これらは表面的な区分のための区分であることから生じています。というのは、直木賞でデビューしてきた作家が純文学風の作品を書いたり、芥川賞でデビューした作家がエンタメ風のものを書くことはじゅうぶんありますし、両賞とは無縁の幾多の小説のそれぞれをきちんと分類することなどは不可能なのです。

             

 著者は、そうしたトートロジーのどん詰まりから出発しながら、文学をより開かれた視野のうちで捉え返そうとします。
 それは小説という多様性を含んだ分野を、各ジャンルの併存と交流のような形でみてゆくことです。それは、例えば音楽の受容に似ています。クラシックやジャズ、ロックやフォーク(民謡)、時折々の流行音楽などなどは、そのジャンルごとにファンを集めるとともに、横断的に影響を与え合い、受容する人も、必ずしもひとつのジャンルに限定されません。
 あるいは逆に、クラシックのうちでもバロックないしはそれ以前しか聴かないというマニアックな人、ベートーヴェンにしか興味のない人、ある指揮者、ないしは演奏家にしか・・・・という人もいて、これはまた、小説や文芸作品の受容に似ています。

 これらを前提とし、著者は1970年代を起点として文学作品の傾向の変遷、ミステリーやSF をも網羅した各作品の推移、サブカルと「本格カルチャー」?との関連、などなどを膨大な作品群に触れながら述べてゆきます。

 正直いって私はこれらの作品を全く読んではいません。かろうじて、その作家の名前を知っていたりするぐらいですが、この半世紀、どんな作家がどのように現れて、どんな位置づけにあるかの相関図のようなものがおぼろげながら感得されます。
 そして、なによりもそれらは読書案内的な役割を果たしてくれます。とりわけ、推理小説部門やSFのなかには食指をそそるものが結構あります。

                 

 最後の結語部分で、著者は今一度、文学のトートロジーに触れ、「文学」を「文学は文学である」から開放するための方策を提言します。
 それは文学のうちにSFもミステリーもエンタメもライトノベルも放り込み、それとともに、「文学」もあらゆる「ジャンル小説」に放り込んでゆくことです。それに続けて著者は言います。

「〈文学〉の相対化をもっともっと押し進め、そうすることで、〈文学〉によって他の〈小説〉たちを相対化してゆくわけです。
 ここ数十年間のうちに起こってきたのは、そもそもそういうことでした。この押し止めようのない流れをむしろ逆手に取って、〈文学の相対化〉を〈文学による相対化〉に反転してしまうこと。〈ニッポンの文学〉を〈ニッポンの小説〉に解消するのと同時に、〈ニッポンの小説〉を〈ニッポンの文学〉にまるごと変容させてしまうこと。〈文学〉と〈小説〉が、いっそのこと完全なイコールで結ばれるまでシェイクし続けること。
 そしてついに両者の区別がつかなくなった時、むしろかつて〈文学〉と呼ばれていたはずの何か、われわれが躊躇なく〈文学〉と呼ぶことのできた何かが、或る新鮮な懐かしさと、懐かしい新しさとともに蘇ってくるのではないかと思うのです。そしてそうなるためのヒントは、これまで語ってきた沢山の過去の営みと試みのうちに、色々と見つけ出すことができるのではないでしょうか?」

 とまあ、こんなところですが、この結論部分は具体的にはどうなんでしょう。今ひとつ現実的なイメージが湧いてこない感もあります。

 私自身の読後感からいえば、ここ半世紀、〈ニッポン〉の小説とうのはどのように推移した来たのかのガイドラインが示されていて、そのなかでの注目すべき各作品(純文学にとらわれずミステリーやSFを含めて)を網羅され、広い意味での読書案内にもなりそうだということです。



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