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人新世を描いた? 台湾の現代小説『複眼人』を読む

2021-09-16 00:18:03 | 書評

 物心がついた時、 台湾は朝鮮半島や樺太、そして中国東北部などとともに日本の領土で真っ赤に塗られていた。 その台湾には高砂族と言う原住民がいて、日本の軍部と協力して高砂義勇隊を組織しているとも聞いたことがあった。「ニイタカヤマノボレ」の新高山も台湾にあった。

         
 
 敗戦後には、もう台湾は日本の手を離れていた。その後知ったのは、例えば高砂族というのは、ほんとうは10ほどあった原住民を、その相互の差異を無視して、日本の統治者が勝手に名付けたものであること、また、占領中には、そうした原住民のかなりの抵抗運動があったことなどである。
 新高山も富士山より高いというので日本人が勝手につけた名前で、現在は玉山というのだという。
 
 しかし、いずれにしても台湾については知るところは少なかった。国際的に中国との危うい関係にあることは知っていたが、その表現や創造活動についてもあまり知るところはなく、わずかに1990年代に侯孝賢監督の『冬冬の夏休み』や『悲情城市』などの映画を観たくらいである。

 いま台湾は、米中の緊張関係のなかで、国際的な波乱の中に再び引き出されているかのようである。

 台湾の現代小説『複眼人』(呉 明 益)を手にしたのはそんな背景があったからではない。このコロナ禍のなか、いつも行く図書館が、カウンターでの図書の授受のほか、書架の閲覧などは不可能になり、ネットや電話での予約による貸し出しに限定されるようになったせいである。ようするに、ネットで新着図書を眺めていて目に留まったというのが実情である。

             

 物語は三つの島とそれに係る複数の人からなる。
 三つの島とは、古代海洋民族の原始文明をいまなお保持しているワヨワヨ島と、台湾、そして世界中の人々が海洋へ投棄したプラスティックをはじめとするおびただしい産廃物が、海流の関係で集積されて出来上がり、太平洋を漂流することとなった広大な島とである。

 物語はワヨワヨ島からはじまる。
 この島の少年、アトレは、島の長老ともいえる祈祷師の家に生まれるが、次男である。この島では、次男はある年齢に達すると幾ばくかの食糧と水を積んだ小舟で島を出なければならない。小さなこの島では、増え続ける人口を養うだけの生産力がないのだ。その代わり、その次男の出発の夜、彼は島の乙女たちすべてと交わる権利が与えられる。少女たちは、彼が通る道に身を潜め、彼を引き止めて交わる。
 アトレのように人気のある少年の相手は半端な相手ではない。しかし、彼が本当に交わりたかったのは、ウルシュラという少女。彼女は最後に現れ濃厚な関係を交わす。

 島を離れた少年たちは棄民であるから何日間かでその生命を失う運命にあり、海で果てた彼らは昼間はマッコウクジラとして海洋を往来し、夜は亡霊として新参の棄民次男を激励する。
 だが、アトレは助かった。たまたま漂流してきたあの膨大にして広大なゴミの島に打ち上げられたからだ。彼は、産廃物の中から生存に必要なものを作り上げ孤独な漂流生活を始める。

          
                  著者の呉 明 益

 舞台は台湾に移る。
 アリスは大学の教師だが、デンマーク人の夫トムとその間の愛息トトとを登山で失い(行方不明)、死を願望するに至る。彼女は所属する族名が記されていないから、戦後大陸からやってきた漢族の本省人かもしれない。
 著者は、台湾の大雑把な歴史を、当初原住民がいたところに日本人がやってきて支配し、それが終わると大陸の革命に追われた本省人がやってきて支配したと述べる。

 アリスの住まいは台湾の北東部、後ろに山地が迫る海岸端であるが、かつての豊かな自然に恵まれた地も、観光化して土地の風俗を壊すような低俗な民宿が立ち並ぶ場所と化している。しかも、海岸の浸食作用でかつての道路に変わり、山肌の美観を損なう道路ができたりして、一層、魅力を損ない、観光地としても危機に瀕しているようだ。

 夫トムと仲の良かったダフは布農族に属する山岳ガイドで、かつて台北で風俗業をしていていまは海べりに気ままなカフェを営んでいる女性ハファイは阿美族である。
 この二人とアリスは気心が通じ合っているようだが、ともに地震や津波の災害に苦しめれれている。ある日の津波で、アリスは斑の子猫を救う。その子猫に「オハヨ」と名付けるがこれは日本語の「おはよう」の意味だ。そして、この子猫が彼女が生きるささやかな支えとなる。

 しかし、やがてこの海岸に大異変が起きる。それは、先に述べた人類が海へと吐き出した膨大な廃棄物でできた巨大な島(アトレの名付けではガス島)が接近し、ついに激突を引き起こすのだ。それは、台風などの後、海岸線に押し寄せるゴミどころの騒ぎでははない。具体的な大きさは述べられてはいないが、とにかく廃棄物が何層にも固まり広がった、大きな島なのだ。

         

 そしてその島には、ワヨワヨ島から辿りついたアトレが住み着いており、衝突の衝撃で山裾へと押しやられ、足を骨折する怪我を負う。それをた助けたのがアリスであり、そこで、アリスとアトレ、それにオハヨの二人と一匹の奇妙な共同生活が山地の狩猟小屋で始まる。アリスの海辺の家は、島の激突で住めなくなってしまっているのだ。

 猫のオハヨはともかく、アリスとアトレはまったく異なる言語で、コミュニケーション不能である。しかしやがて、ものを指差したり、表情を交えたりで、少しずつ通い合うものが出てくる。そして・・・・。

 以上は極めて大雑把なあらすじの、しかも途中にしか過ぎない。人物も既に述べた人々の他に、デンマークからの地質学者やジャーナリストの女性も登場する。そして、それぞれの人がそれぞれの視線から事態の推移を捉える。
 当初、この書のタイトル『複眼人』は、そうした多くの人たちの視線を意味するのかと思った。

 しかし、終盤に至って複眼人はやはり登場する。
 彼は、アリスの夫と息子が行方不明になった折の二人の前にそれぞれ個別に登場する。夫トムの墜死の現場では、そのトムといささか形而上的な会話を交わす。人間が、記憶を記述することによって保つ、つまり人間の文明のありようについて複眼人が述べる。
 「 そのような能力を持つお前たちを、正直、私は羨ましいと感じることも敬服することもない。なぜなら人類は他の生物の記憶も何とも思っていないからだ。お前たちの存在は、他の生命が持つ記憶を破壊し、自らの記憶も破壊している。 他の生命や生存環境の記憶なしに生きられる命などありはしない。にもかかわらず人類は他の生命の記憶に頼らずとも生きていけると思っている。花々は人間の目を楽しませるために美しく咲き、猪は肉となるために存在し、魚は釣り針にかかるために泳ぎ、人間だけが 悲しむことができる生物だと思っている」

 これは、世界を資源としてしか観ていない人間の「世界疎外」のありようを指摘したものとも読める。
 こうして読みすすめると、当初、無文字社会のメルヘンチックなワヨワヨ島から始まったなかば寓話的なSFの描写が、実は今日の高度な文明世界、とりわけ、環境を自分たちの増大しつつある生産と消費の欲望に従わせる資本主義的循環のあり方に対する警告を暗示していることに気付く。
 
 否、膨大な廃棄物によって生みだされ、巨大な島となって海洋を漂うガス島の存在そのものがそれを極めて直截的に現しているといえよう。このゴミの漂流は、この小説ほど膨大ではなくとも、現実に存在するものであるし、また、原子力発電所のいかんともし難い使用済み核燃料の問題、フクイチの汚染水、廃炉によって生じる膨大な核の汚染物などをも象徴している。

         

 こうしてみると、この物語は人が自然との間に最小限の離反しか生み出さないようなワヨワヨ島の対極の、最近流通し始めた言葉で言えば、人類の営みが地球規模でその地質や生態系に絶大な力を及ぼす時代、「人新世」を語るものともいえる。
 ただし、この小説自体は、先に引用した複眼人の台詞以外にはそれを直接に語ることはしないで、資本主義的欲望に支配される以前の台湾の原住民の暮らしぶりや、世界中に散らばるさまざまなエピソードを語るなかでそれを暗示している。

 なお、この『複眼人』という小説自体が、登場人物のアリスが終盤に至って一気に書き上げた小説という自己言及的循環もあって、その他の要素ともども、ミステリアスな印象が残るものとなっている。

 この小説の最後に引用されている詩はボブ・ディランの初期の作品、『激しい雨が降る(A Hard Rain's a-Gonna Faii)』だという。

  これから何をするつもりなんだい? 私の青い瞳の息子よ
  これから何をするつもりなんだい? 私の愛おしい少年よ
  雨が降り出す前に去るよ
  あの黒い森の一番奥へ歩いて行く
  そして沈む時まで大海の真ん中に立つんだ
  僕が歌い始める前に 歌を心に刻んでおきたい
  そして 激しい 激しい 激しい 激しい雨が
  激しい雨が今にもやってくる


 『複眼人』呉 明 益 (小栗山智:訳 株式会社KADOKAWA)  2,200円

台湾には現在、「台湾原住民族」といわれる、阿美族(アミ族)、泰雅族(タイヤル族)、賽夏族(サイシャット族)、布農族(ブヌン族)、雛族(ツォウ族)、魯凱族(ルカイ族)、排湾族(パイワン族)、卑南族(プユマ族)、雅美族(ヤミ族)、邵族(サオ族)の十族が住んでいる。 


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